マゼランは確かにスペインに仕えた
フェルディナンド・マゼラン(ポルトガル語名:フェルナン・デ・マガリャンイス)は、ポルトガル北部サボイザ出身の探検家・航海者です。しかし、人類史上初の世界周航を成し遂げた遠征隊を率いたのは、生まれ故郷のポルトガルではなく、ライバル国であるスペインの旗のもとでした。1519年、スペイン王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)の支援を受けて出航したこの遠征は、歴史に残る大偉業となっています。
ポルトガルでのキャリアと国王との決裂
マゼランは若くしてポルトガル王室に仕え、インドやマラッカ(現在のマレーシア)への遠征に参加して豊富な航海経験を積みました。ところが、北アフリカのモロッコ遠征から負傷を負って帰国した後、運命は一変します。王室に俸給の増額を求めたものの、国王マヌエル1世はこれを拒否。さらにモロッコでの戦利品の取り扱いをめぐり不正の疑いをかけられ、宮廷での立場は悪化の一途をたどりました。
西回り航路という大胆な構想
失意の中でマゼランが抱いたのが、「西へ進めばスパイス諸島(モルッカ諸島)に到達できるのではないか」という大胆な構想でした。当時、香辛料貿易で莫大な利益を得ていたポルトガルは、喜望峰経由の東回り航路をすでに独占しており、新たな航路開拓に乗り出す動機はありませんでした。こうしてマゼランの提案は、祖国の宮廷では受け入れられなかったのです。
スペインがマゼランを受け入れた理由
一方、大西洋航路で新大陸を手にしたスペインは、1494年のトルデシリャス条約により香辛料産地へのアクセスを事実上ポルトガルに譲る形となっており、西回りの新航路を強く求めていました。そこに目をつけたのがマゼランです。1517年、彼はポルトガル国籍を放棄してスペインへ渡り、セビリアでカルロス1世に謁見。自らの航海計画を献上すると、王はこれを採用し、艦隊司令官に任命しました。
世界周航の達成とマゼランの最期
1519年9月、5隻・約270人の艦隊はスペインを出航しました。マゼランは南米大陸南端の海峡(後のマゼラン海峡)を発見して太平洋へ抜け、フィリピンへ到達します。しかし1521年、マクタン島の戦いで現地の首長ラプ=ラプと戦い、命を落としました。それでも副指揮官のフアン・セバスティアン・エルカノが指揮を引き継ぎ、わずか1隻のビクトリア号と18名の生存者とともに1522年に帰還。ここに人類初の地球一周が成し遂げられたのです。
まとめ
マゼランがスペインに仕えたのは、祖国ポルトガルの宮廷で冷遇され、自らの航海計画に理解を得られなかったからです。自らの才能を認めてくれる後援者を求めて国境を越えた彼の選択は、結果として大航海時代最大の偉業である世界周航を実現させました。ポルトガル生まれでありながら、歴史に名を刻んだのはスペインの旗のもとだった――この点こそ、マゼランの波乱に満ちた人生を象徴するエピソードといえるでしょう。