ヨーロッパの歴史

ナチス・ドイツのチェコスロバキア侵攻で何が起きたのか?1938〜39年の経8〜39年の経緯を徹底解説

1938年から1939年にかけて、ナチス・ドイツによるチェコスロバキアへの侵攻と解体が段階的に進みました。この一連の出来事は、宥和政策の失敗を象徴するとともに、第二次世界大戦勃発の重要な引き金となりました。ここでは、その経緯を年ごとに詳しく見ていきます。

1938年:危機の始まり

アンシュルス(オーストリア併合)

1938年3月、ドイツは「アンシュルス」と呼ばれる出来事においてオーストリアを併合しました。これにより、ドイツのさらなる拡張主義に対する欧州各国の警戒心が一気に高まることとなります。

ズデーテン危機

続いてナチス・ドイツは、ドイツ語圏の住民が多数居住していたチェコスロバキア西部の「ズデーテン地方」の領有を主張し始めました。民族自決を掲げるヒトラーの要求は、チェコスロバキアの主権を脅かすものでした。

ミュンヘン協定

1938年9月、イギリス、フランス、イタリア、ドイツの4か国首脳が集まり「ミュンヘン協定」が調印されました。戦争回避を目指す英仏は、ヒトラーを宥和するため、ズデーテン地方のドイツによる併合を認めます。しかし当のチェコスロバキアは協議の場から排除され、同意なきまま同地域をドイツへ割譲させられました。これが後に「ミュンヘンの屈辱」と呼ばれる宥和政策の典型例です。

1939年:占領と解体

チェコスロバキア全土の占領

1939年3月、ドイツはミュンヘン協定の約束を一方的に破棄し、チェコスロバキアの残存領土へ軍隊を進駐させました。ヒトラーはボヘミアとモラビアを「ドイツ保護領」として宣言し、直接支配下に置きます。一方、スロバキアは名目上独立した国家として成立しましたが、実質的にはドイツに従属する衛星国となりました。

国家の解体と国際社会への衝撃

チェコスロバキアの侵略と解体は、ナチスの拡張主義が重大な段階へ進んだことを示す出来事であり、明確な国際法違反でした。この事態はヨーロッパ全域に衝撃を与え、「譲歩すれば平和が保てる」という宥和政策の根本的な失敗を浮き彫りにしました。

第二次世界大戦への道

チェコスロバキアの占領と解体は、1939年9月に始まる第二次世界大戦へとつながる最重要事件の一つとされています。ドイツの野心が止まらないことを悟ったイギリスとフランスは対独姿勢を硬化させ、同年9月のポーランド侵攻を機に、ついに戦争へと突入していきました。