ヨーロッパの歴史

ルター、カルヴァン、ヘンリー8世――三人はいかにしてカトリック教会と決別したのか

宗教改革期にカトリック教会と決別した中心人物として、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、ヘンリー8世の三人が挙げられます。しかし、彼らの出自や決別の経緯はそれぞれ大きく異なります。まず押さえておきたいのは、ルターがドイツ人、カルヴァンがフランス人であり、三人の中で唯一イングランド出身なのはヘンリー8世だけだという点です。

マルティン・ルター――贖宥状批判から破門へ

ドイツの修道士だったルターは、1517年に「95カ条の提題」を発表し、罪の赦しを金銭で買う「贖宥状」の販売を公然と批判しました。ローマ教皇庁が考えの撤回を求めると彼はこれを拒み、1521年に破門されます。さらにヴォルムス帝国議会でも自説の撤回を拒否したため、帝国追放令の対象となりました。こうしてルターはカトリック教会との完全な決別を迎え、「信仰のみ」「聖書のみ」というプロテスタントの基本理念を打ち立てたのです。

ジャン・カルヴァン――改革思想の体系化とジュネーブでの実践

フランス出身のカルヴァンもまた、カトリック教会から離れた宗教改革者の一人です。若くして人文主義的な学問を修めた彼はプロテスタントの立場に転じ、1536年に『キリスト教綱要』を出版して改革派神学を見事に体系化しました。故国フランスでの迫害を避けてスイスのジュネーブに拠点を移し、同地で厳格な教会運営と都市改革を実践しました。予定説や長老制といったカルヴァンの思想は、スイスやオランダ、スコットランドなど広範な地域の改革派教会に大きな影響を与えました。

ヘンリー8世――離婚問題が引き金となったイングランド国教会の成立

一方、イングランド王ヘンリー8世の決別には、神学的な信念よりも政治的・個人的な事情が強く関わっていました。男子の世継ぎを望んだヘンリーは、キャサリン王妃との婚姻の無効をローマに申請しますが、教皇は神聖ローマ皇帝カール5世(キャサリンの甥)への配慮から承認を拒みました。これに反発したヘンリーは、1534年の「国王至上法」によって、イングランド王こそがイングランド教会の最高首長であると定め、ローマ教皇の権力を国内から一掃しました。こうしてイングランド国教会が成立し、修道院解散などを経て、イングランドはローマと正式に袂を分かつことになったのです。

三人の決別の違いを整理すると

まとめると、ルターは神学上の対立から破門されて新教の道を切り開き、カルヴァンは改革思想を掲げてカトリックから離れてその理論的支柱となり、ヘンリー8世は王権の確立と後継者問題のために教会を国家の支配下に置きました。動機も方法も異なりますが、いずれも中世ヨーロッパにおけるカトリック教会の一元的な権威を揺るがし、近代の宗教的多元性への道を開いた点で共通しています。