1940年5月14日、ドイツ軍がセダンへ攻勢を強めたとき、シャルル・ド・ゴール率いる戦車部隊はセダンの正面には配備されていなかった。部隊はセダンからほど近いストンヌ(Stonne)周辺地域に位置していたのである。
なぜセダンではなくストンヌだったのか
当時のド・ゴールは、ドイツ軍の主攻撃はセダンを突くのではなく、ベルギーおよびルクセンブルク方面を通ってくると判断していた。この見立てに基づき、彼の戦車部隊はベルギー国境寄りの西方展開を重視することになった。
確かに、マジノ線の西端は当初の予備配置場所としては完璧な「ヒンジ(枢軸)スポット」になり得た。しかしド・ゴールの配備決定は、当時入手できた情報に基づく彼自身の戦況評価によるものだった。残念ながらこの評価は的外れに終わり、ドイツ軍はセダンでフランス軍の防衛線を突破。ここからフランス陸軍の崩壊が始まったのである。
背景:アーデンは「戦車が通れない森」だと思われていた
当時のフランス首脳部の多くは、アーデンの森を大規模な機械化部隊が通過することは不可能だと考えていた。だからこそマジノ線はセダン付近で終わり、防御の重点はベルギー平原方面に置かれていた。ところがドイツ国防軍のA集団はこの想定の裏をかき、装甲師団をアーデン経由でセダン前面に集中させたのだ。
ド・ゴールと急造の第4装甲師団
なお、ド・ゴールが指揮したのは開戦直後に急造された第4装甲師団(4e DCr)である。同師団は編成発令から間もない状態で、5月14日の時点ではまだ集結途上にあった。ド・ゴールが本格的に反撃に打って出るのは5月17日のモンコルネ(Montcornet)の戦いからであり、以後も局所的な逆襲を試みたものの、既に破られた戦線全体を立て直すには至らなかった。
この配備判断が残した教訓
セダンの失陥は、「敵の主攻方向を見誤れば、どれほど有力な予備兵力でも決定的局面に間に合わない」という古典的な教訓として語り継がれている。マジノ線終端という理想的なヒンジ拠点を活かせなかったことは、1940年のフランス敗北を象徴するエピソードの一つなのである。