レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)をめぐる戦いは、1941年9月から1944年1月まで続いた、第二次世界大戦で最も長く悲惨な包囲戦の一つです。ドイツ国防軍北方集団とフィンランド軍が市を包囲し、約870日以上にわたって封鎖を維持しました。主な戦場はソ連領内であり、市街地とその周辺で激しい攻防が繰り広げられました。
ドイツ軍の捕虜はどれくらい取られたのか
包囲戦の序盤では、攻勢側だったドイツ軍がまとまった数で捕虜となるケースは多くありませんでした。レニングラード市は陥落せず持ちこたえたため、大規模な包囲殲滅戦のような大量の捕虜発生には至らなかったのです。一方、ドイツ軍側もソ連軍将兵を相当数捕虜としていますが、他の東部戦線の戦いと比べると規模は限定的でした。
ドイツ軍の兵士が本格的に捕虜となったのは、ソ連軍が反攻に転じた1943年以降、特に1944年1月からの「レニングラード・ノヴゴロド攻勢」においてです。この作戦でドイツ第18軍は壊滅的な打撃を受け、数万人規模の将兵が死傷または捕虜となったとされます。ただし、捕虜の正確な総数については資料や集計方法によって大きく異なり、確定した数字は存在しないのが実情です。
戦いの経過
包囲の開始(1941年)
1941年9月8日、ドイツ軍がシュリッセリブルクを占領し、陸路による補給線が断たれました。ここから約900日におよぶ包囲が始まります。冬が近づく中、市の食料・燃料備蓄は急速に枯渇していきました。
包囲網の部分突破(1943年)
1943年1月、ソ連軍は「イスクラ作戦」を実施し、ラドガ湖畔で包囲網を部分的に突破。陸上補給路が確保され、状況は徐々に改善へと向かいました。
包囲の完全解除(1944年)
1944年1月27日、大規模な反攻作戦の結果、包囲は完全に解除されました。この戦いは独ソ戦全体の転換点の一つとされています。
両軍と市民の損害
この戦い最大の悲劇は、一般市民の犠牲です。飢餓・寒波・砲撃・空襲により、市民の死者は80万人から100万人を超えると推定されています。ソ連軍の死傷者・行方不明者は全期間を通じて100万人規模に達し、ドイツ軍側も数十万人単位の損害を被りました。
まとめ
レニングラードの戦いでは、包囲中の前期にドイツ軍将兵が大量に捕虜となることは少なく、本格的な捕虜の発生は1943年以降のソ連軍の反攻、とりわけ1944年の攻勢で見られました。数万人規模のドイツ兵が死傷・捕虜となったと考えられますが、正確な総数は史料間で差があり断定は困難です。この戦いは、捕虜の数よりも、市民を含めた膨大な犠牲によって歴史に刻まれています。