ヨーロッパの歴史

英蘭戦争とは?17世紀のイングランドとオランダによる三度の海上対決を解説

英蘭戦争(Anglo-Dutch Wars)とは

英蘭戦争は、17世紀にイングランド王国(後のグレートブリテン王国)とオランダ共和国(ネーデルラント連邦共和国)との間で繰り広げられた、計三次にわたる一連の戦争です。両国は当時、世界最大級の海洋貿易国家として台頭しており、東インドやアメリカ大陸における貿易路と植民地の支配権をめぐって激しく対立しました。

この記事では、各戦争の背景・経過・結果をわかりやすく整理し、ヨーロッパ史における英蘭戦争の意義を解説します。

第一次英蘭戦争(1652年〜1654年)

開戦のきっかけ:航海法

第一次英蘭戦争の直接的な引き金となったのは、1651年にイングランド議会が制定した「航海法」でした。この法律は、イングランドへ輸入されるすべての商品をイングランド船、または原産国の船舶で運ぶことを義務付けるものであり、中継貿易で巨利を得ていたオランダの海運業への正面からの挑戦と受け止められました。

主な経過と結果

戦争は主に海上で行われ、ブレイク提督率いるイングランド艦隊と、トロンプやデ・ロイテルらが率いるオランダ艦隊が激突しました。優れた砲術と艦隊編成を武器にしたイングランド海軍が次第に優位に立ち、1654年のウェストミンスター条約の締結により講和が成立しました。オランダは航海法を受け入れ、東インド諸島での貿易特権についても譲歩を余儀なくされました。

第二次英蘭戦争(1665年〜1667年)

再燃した貿易摩擦

第二次英蘭戦争もまた、東インドにおける通商上の対立が主因でした。西アフリカや北米(ニュー・ネーデルラント)でも両国の利害が衝突するようになり、1665年に正式に開戦しました。

メドウェイ襲撃とブレダ条約

戦争序盤はイングランドが優勢でしたが、1667年、オランダ海軍は名将デ・ロイテルの指揮下でテムズ川河口に侵入し、チャタム造船所を急襲してイングランド艦艇を焼き払うという歴史に残る「メドウェイ襲撃」に成功しました。これに衝撃を受けたイングランドは講和へ傾き、同年のブレダ条約で戦争は終結しました。

条約では、イングランドが獲得していた北米のニュー・アムステルダム(後のニューヨーク)の領有が追認される一方、オランダはスリナムと香料諸島のラン島を確保するなど、互いに得失がありました。しかし、メドウェイでの屈辱的な敗北を考えると、この戦争はオランダにとって有利な形での決着だったと言えます。

第三次英蘭戦争(1672年〜1674年)

フランスとの同盟とオランダ侵攻

第三次英蘭戦争は、前回までの二つの戦争とは性格が異なり、フランス王ルイ14世が企てたオランダ侵略戦争(仏蘭戦争)の一環として起こりました。1672年、イングランドはフランスと同盟を組み、陸からはフランス軍が、海からは英仏連合艦隊がオランダを攻撃しました。

オランダの巻き返し

当初オランダは奇襲を受けて苦境に立たされましたが、青年指導者ウィレム3世(後のイングランド王)が防衛を統率し、堤防を破って低地帯を水没させる「洪水防御」によってフランス陸軍の進撃を食い止めました。海上ではデ・ロイテルが数に勝る英仏艦隊に果敢に挑み、ソールベイの海戦などで撃退することに成功しました。

戦争は1674年の第二次ウェストミンスター条約の締結で終了し、イングランドはオランダとの単独講和に踏み切りました。領土はおおむね開戦前の状態に戻されましたが、イングランドはフランスとの同盟から手を引くことになりました。

英蘭戦争の歴史的意義

英蘭戦争は、ヨーロッパ史における大きな転換点となりました。戦争を通じて、オランダが17世紀半ばまで誇っていた「海洋大国」としての地位は相対的に低下し、代わってイングランドが制海権を握る海軍大国として台頭していきました。

また、これらの戦争では艦隊を整然と縦列に組んで砲撃を交わす「戦列戦術」が発達し、近代的な海軍戦術の基礎が築かれました。さらに、戦後の関係悪化を避けるため、敗者であるオランダのウィレム3世が後にイングランド国王として迎えられるなど、両国の関係は対立から協調へと徐々に移行していきました。この流れは、やがてオランダの資本と商業網をイングランドが継承する形へとつながり、18世紀以降のイギリス帝国の繁栄への道を開いたのです。