ヨーロッパの歴史

1968年:ハンブルク地裁が下した歴史的判決――強制労働者500人を殺害した元SS隊員3人に無期懲役

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツは東部戦線沿いの集団墓地を次々と掘り起こさせ、数十万人に及ぶユダヤ人や戦争捕虜の遺体を焼却・粉砕して証拠を消し去ろうとした。この恐るべき犯罪の全貌と、それから20年以上経ってハンブルクで行われた歴史的な裁判を振り返る。

前代未聞の犯罪:遺体の掘り起こしと強制労働者の虐殺

1942年から1944年にかけて、ナチスは東部戦線沿いに設けられた無数の集団墓地を開削し、そこに埋葬されていた何十万人ものユダヤ人や捕虜の遺体を掘り出させた。ポーランド人やロシア人の強制労働者たちは、遺体の運び出し、遺留品の捜索、焼却、そして骨の粉砕・散布までを強制された。このおぞましい作業が終わると、彼ら自身もまた殺害された。作戦の真の目的は、東部で行われた大量虐殺の証拠を完全に消し去ることにあった。集団墓地の存在と遺体処理を知る目撃者を、一人たりとも残してはならなかったのだ。

匿名の手紙がSS加害者への足掛かりに

マックス・クラーナー、オットー・ゴルトアップ、オットー・ドレウスの3人は、これらの犯罪に関与し、強制労働者を殺害した数知れぬSS隊員の中のほんの一例にすぎない。彼らは徹底的に仕事を遂行し、生き残りを一切残さなかった。しかし1966年、ある匿名の手紙をきっかけに、ハンブルク検察庁が捜査に乗り出す。捜査はすでに有罪判決を受けていた別のSS隊員にたどり着き、その男はかつての同志3人について進んで証言した。こうして1967年10月17日に公判が始まり、1968年2月9日、ハンブルク地方裁判所は強制労働者500人の殺害の罪で3人に無期懲役の判決を言い渡したのである。

「自由」ではなく死を

被告らは1943年12月16日ただ一日で、ポーランドのビャウィストク近郊において100人の強制労働者を殺害した。排気ガスを送り込めるよう改造された2台のトラックを使ってのことである。労働者たちはその直前まで、命令どおり山積みの遺体の撤去作業を終えたばかりだった。SS隊員らは彼らに「もう自由になれる」と告げる。テーブルでは、クラーナーが見たことを口外しない旨の誓約書への署名を一人ひとりに求め、ゴルトアップは石鹸とタオルを配った。解放されると信じ込ませたのは憐れみのためだったと、クラーナーは自らを弁護する。「余命2か月のがん患者を医者が欺くのと同じことだ」。

トラックの排気ガスで窒息死させた虐殺

強制労働者たちはトラックに乗り込まされた。捜査資料によれば、車内はあまりにも満杯で、観音開きの扉を力ずくで押し閉めなければならないほどだったという。異変に気づいた囚人たちは絶望して壁を叩いたが、およそ15分後には悲鳴が静まり返った。「扉を開けると、前方の死体がジャガイモのようにころころと転げ落ちてきた」と、クラーナーは当時の様子を語っている。

3人はさらに、ポーランドやベラルーシで400人以上の強制労働者を殺害した。首を銃で撃ち抜く手法もあれば、労働者宿舎に手榴弾を投げ込んだ事例もあった。なぜ虐殺に関わったのかと問われたマックス・クラーナーは、単純な答えを返した。「自分は民族のためになる最善のことをしていると思っていた」――1967年10月19日付「ハンブルガー・アーベントブラット」の法廷報道によれば、そう主張したという。

「1005号作戦」――組織的な証拠隠滅工作

3人の元SS隊員による犯行は、より大規模な組織的作戦の一端だった。帝国保安本部の整理番号にちなんで名付けられた、いわゆる「1005号作戦(アクション1005)」である。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命令により、東部戦線沿いのすべての集団墓地を開削し、遺体を破壊して、東欧におけるナチス絶滅政策の痕跡を完全に消し去ることが指示された。SS内部で「発掘作戦」とも呼ばれたこの一連の作戦は、最高度の機密として扱われた。

隠蔽工作の背景には、敗戦時の報復を恐れたことや、ドイツの未来の世代が大量虐殺を非難するかもしれないという懸念に加え、何よりも集団墓地で腐敗が進む遺体の問題があった。悪臭は周辺の村々にまで漂い、大量のハエの群れを呼び寄せ、地下水汚染の危険すら招いていたのである。

ハンブルクで初めてのホロコースト裁判

SS隊員3人に対するこのホロコースト裁判は、ハンブルク地方裁判所で審理された初の事例である。1946年には、ノイエンガンメ強制収容所での犯罪をめぐる裁判がハンブルクのクリオハウスで開かれていたが、これは英国軍事法廷によって行われたものであり、ドイツの裁判所によるものではなかった。

逃げ切った多くの容疑者たち

1968年の今回のように、ハンブルク地方裁判所がナチス犯罪で有罪判決を下したのは、ごく一部のケースにすぎない。クラーナー、ゴルトアップ、ドレウスの裁判のために膨大な立証資料をまとめ上げた主任検察官クルト・テッゲにとって、無期懲役判決は大きな成果だった。他の多くの審理では、犯行への直接関与を証明できないとして、加害者が殺人罪ではなく、せいぜい幇助罪でしか裁けなかったからだ。さらに深刻なのは、多くの事件で捜査が何年も引き延ばされ、その間に被告人が亡くなってしまい、法廷に立つことすら叶わなかった点である。

「多くの裁判官に真相解明の意欲はなかった」

1970年代前半、ドイツ内外のメディアでは、こうした遅延が意図的なものではないかとの憶測が飛び交った。1972年から1983年までハンブルクで検事として勤務し、ナチス犯罪を担当したウード・レーア氏は、2018年1月の「ハンブルガー・アーベントブラット」の取材に対し、「戦後の多くの裁判官や検察官は、捜査にそれほど関心を持っていなかった」と認めている。レーア氏は、ワルシャワ・ゲットーの解消と約30万人のユダヤ人強制送還の罪で1975年に無期懲役を言い渡されたルートヴィヒ・ハーンの裁判にも携わった人物である。

一方、検察官テッゲは1971年、本人の意向に反して交通部門へ異動させられた。熱心な刑事法の専門家である同検察官の異動に対し、12人の検察官が内部で抗議していたにもかかわらずである。当時の司法担当委員エルンスト・ハインゼンは、この異例の人事を「慎重な検討の結果」として正当化した。

刑期を満了できずに釈放されたナチス犯罪者たち

他の多くのナチス加害者と同様に、マックス・クラーナー、オットー・ゴルトアップ、オットー・ドレウスの3人も刑期を全うすることはなかった。クラーナーは1977年に恩赦を受け、1997年に96歳でこの世を去った。ゴルトアップは1975年に釈放され、1984年に亡くなった。ドレウスは1973年に釈放されたが、再収監の危機に直面すると自ら命を絶った。