ヨーロッパの歴史

1948年西ベルリン封鎖の真相――米英はどう対応したのか?歴史的「ベルリン空輸」の全貌

西ベルリン封鎖とは?その背景にある東西対立

西ベルリン封鎖は、第二次世界大戦後のドイツの将来をめぐって、アメリカ・イギリス・フランスの西側連合国とソ連との間に対立が深まるなか、ソ連が西側勢力をベルリンから追い出そうとして仕掛けたものでした。

戦後のドイツは米英仏ソの4か国によって分割占領され、首都ベルリンも同様に4つの占領地区に分けられていました。しかし、西側諸国とソ連の考え方の溝は次第に埋まらなくなり、冷戦の緊張が高まっていきました。

1948年6月24日、ベルリンは完全に孤立

1948年6月24日、ソ連は西側占領地区(西ベルリン)への鉄道・道路・運河によるすべての交通路を遮断しました。これにより、約200万人の市民への食料や燃料などの物資供給が完全に断たれたのです。

当時、西ベルリンには数週間分の食料しか備蓄がなく、市民の生活は深刻な危機に陥りました。ソ連は、西側諸国がやがてベルリンの放棄を選ぶだろうと予想していました。

米英の回答は「ベルリン空輸」

この危機に対してアメリカとイギリスが選んだ手段が、大規模な空輸作戦「ベルリン空輸」です。武力衝突を避けながら、飛行機で物資を届け続けるという前例のない試みでした。

この作戦は、史上最も成功した人道支援活動の一つとして広く評価されています。作戦の最盛期には、わずか1分おきに離着陸が行われるほどの激しいペースで物資が運ばれました。

11か月間で200万トン超の物資を空輸

封鎖は11か月続き、1949年5月12日についに解除されました。この間、西側連合国は食料、燃料、機械類などをはじめとする200万トンを超える物資をベルリンへ空輸し続けました。

この空輸作戦は大きな成功を収め、西側諸国がドイツにおける自らの立場を断固として守り抜くという強い意志を世界に示すこととなりました。さらに、この出来事は冷戦の構図を決定づけ、翌1949年の北大西洋条約機構(NATO)の結成や東西ドイツの分裂へとつながっていきました。