第一回十字軍(1096年〜1099年)は、ローマ教皇ウルバヌス2世が1095年のクレルモン教会会議で聖地エルサレムの奪還を呼びかけたことをきっかけに始まった大規模な軍事遠征です。西ヨーロッパ各地から集まった騎士や兵士たちは、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを経由して小アジアへ渡り、激しい戦いを重ねながらエルサレムを目指しました。本記事では、第一回十字軍の進路(ルート)を年表形式でわかりやすく解説します。
第一回十字軍のおおよそのルート
第一回十字軍の主力部隊は、概ね以下のような経路をたどりました。
- 西ヨーロッパ各地(ロートリンゲン、フランス北部、ノルマンディーなど)から出発
- 陸路・海路でコンスタンティノープルに集結
- ボスポラス海峡を渡り、小アジア(アナトリア半島)へ進軍
- ニカイア攻略とドリュライオンの戦いでセルジューク朝軍を破る
- アナトリア高原を横断し、シリアの要衝アンティオキアを包囲・攻略
- 地中海東岸沿いに南下し、エルサレムを包囲・占領
1096年:十字軍の出発
1095年11月:クレルモン教会会議で呼びかけ
ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月にフランスのクレルモンで開かれた教会会議において、聖地エルサレムの解放を訴え、十字軍遠征への参加を呼びかけました。この演説が第一回十字軍の直接の起点となります。
1096年夏〜秋:諸侯の部隊が順次出発
呼びかけを受け、1096年には西欧各地から有力諸侯率いる部隊が相次いで出発しました。
- 8月:下ロートリンゲン公ゴドフロワ・ド・ブイヨンの部隊がロートリンゲン地方から出発。
- 8月〜10月:ヴェルマンドワ伯ユーグ、ブロワ伯エティエンヌ、ノルマンディー公ロベール2世(短袴王)、トゥールーズ伯レーモン4世らの部隊が、フランス各地および南イタリア経由で東方へ向かった。
なお、これより先には民衆十字軍と呼ばれる非正規の部隊が先んじて出発していましたが、小アジアでセルジューク朝軍によって壊滅しています。
1097年:コンスタンティノープル集結から小アジアへ
春:コンスタンティノープルに到着
各隊は1096年末から1097年春にかけて、東ローマ(ビザンツ)帝国の首都コンスタンティノープルに到着しました。皇帝アレクシオス1世コムネノスは、十字軍が将来奪還する旧帝国領を帝国に返還することを条件に、彼らへ支援を提供しました。
5月〜7月:ニカイア攻略とドリュライオンの戦い
十字軍はボスポラス海峡を渡って小アジアに入り、セルジューク朝の拠点ニカイアを包囲しました。同年6月にニカイアは降伏し、続く7月1日のドリュライオンの戦いではセルジューク朝トルコ軍を決定的に撃破。アナトリア高原を横断する道が開かれました。
1098年:アンティオキア攻防戦
1097年10月に始まったアンティオキア包囲戦は、8か月近くに及ぶ苦戦でした。1098年6月、十字軍は堅固な城壁を誇るアンティオキアをようやく陥落させます。しかし直後にはモースル太守ケルボガ率いる大軍が押し寄せ、今度は十字軍側が包囲される危機に陥りました。それでも十字軍は同年6月末の決戦でケルボガ軍を破り、シリアにおける足場を確保しました。
1099年:エルサレム攻略と王国の成立
2月〜6月:エルサレムへの最終行軍
1099年初頭、十字軍は南下を再開し、地中海沿岸部を通ってパレスチナへ進みました。6月7日、ついにエルサレムの城壁の前に到達します。
7月15日:エルサレム陥落
約1か月にわたる包囲攻撃の末、1099年7月15日、十字軍はエルサレムを占領しました。
7月22日:初代統治者の選出
7月22日、ゴドフロワ・ド・ブイヨンが「聖墳墓守護者」の称号のもと、エルサレム王国の初代統治者に選ばれました。
まとめ
第一回十字軍は、1096年に西欧各地を出発した軍勢が、コンスタンティノープル経由で小アジアへ渡り、ニカイア、ドリュライオン、アンティオキアといった激戦を乗り越えて、1099年7月についにエルサレムを占領した遠征です。この成功によりエルサレム王国が成立し、以後200年近くにわたる十字軍運動の幕開けとなりました。