ヨーロッパの歴史

なぜフランス軍は1917年に反乱を起こしたのか?――ニヴェル攻勢の失敗と兵士たちの限界

1917年、フランス軍を襲った大規模な「反乱」の実態

第一次世界大戦中盤の1917年、フランス陸軍では近代史上まれに見る大規模な集団的不服従、いわゆる「反乱(ミュタニー)」が発生しました。ただしその性格は、武器を味方に向けるような暴動ではなく、「これ以上の無謀な攻撃には参加しない」という拒否運動でした。最終的に約68個師団に波及し、数万人規模の兵士が何らかの形で関与したと推定されています。

なお、一部の資料では「1917年には大規模な反乱はなく、1916年のヴェルダンで発生した」とされることがありますが、これは誤解です。ヴェルダンの戦い(1916年)においても極度の疲労や抗議の動きは見られましたが、組織的かつ広範囲に及ぶ反乱は、1917年春のニヴェル攻勢の失敗後に集中して起こりました。

直接の引き金:ニヴェル攻勢の惨敗

反乱の決定的なきっかけとなったのは、1917年4月16日に開始されたニヴェル攻勢です。総司令官ロベール・ニヴェル将軍は短期間での決定的勝利を約束していましたが、現実には初日だけで約12万人の死傷者を出し、期待された戦線突破は一切実現しませんでした。

「必ず勝てる」と信じ込まされて突撃したのに、結果は無意味な犠牲――この大きな落差が、兵士たちの忍耐を一気に崩れさせました。

反乱に至る背景:積み重なった疲弊

もちろん、反乱は突然生じたものではありません。開戦以来の数年にわたり、以下のような要因が静かに蓄積していました。

  • 消耗戦の果てしなさ: ヴェルダンやソンムといった激戦で数十万人単位の損害を出しても、戦線はほとんど動かなかったこと。
  • 過酷な塹壕生活: 泥水、ノミやネズミ、絶え間ない砲撃の恐怖、そして劣悪な食料。
  • 休暇の遅延: 約束されていた帰郷休暇が度重なる作戦で延期され続けたこと。
  • 将校への不信: 安全な後方から命令を下すだけの指揮官層への怒り。
  • ロシア革命の影響: 東部の同盟国ロシアで起きた革命のニュースが、「戦争を終わらせることは可能だ」という希望を兵士たちに植え付けたこと。

反乱の特徴:「攻撃は拒むが、防衛は守る」

興味深いことに、反乱兵たちは国を裏切ったり、前線を放棄したりしたわけではありません。彼らが拒んだのはあくまで「無意味な突撃命令」であり、ドイツ軍が攻めてくれば塹壕を守り抜く意志は保っていました。これは戦争継続そのものへの全面的な拒否というより、送り出される側の条件を突きつけた抗議だったのです。

ペタンの対応:懐柔と粛清の併用

危機を受けたフランス軍上層部は、ニヴェルに代わってフィリップ・ペタン将軍を総司令官に任命します。ペタンは事態を二段構えで収拾しました。

  • 休暇の増加、食料の改善、より慎重な作戦計画など、兵士の不満への具体的な譲歩。
  • 一方で首謀者とされた兵士への軍法会議。約3,400人が裁かれ、550人余りに死刑判決が下され、このうちおよそ50名が実際に銃殺されました。

こうした施策と、ドイツ軍が反乱の情報を活かせなかった幸運にも助けられ、フランス軍は崩壊を免れます。ただし、以後のフランス軍は大規模攻勢を避けて防御的な姿勢を強め、西部戦線の主導権はイギリス軍やアメリカ軍へと移っていくことになりました。

まとめ

1917年のフランス軍反乱は、無謀な作戦と長年の疲弊が限界に達した末に起きた、兵士たちの「静かな拒否」でした。それは軍隊の崩壊ではなく、一人の人間としての尊厳を取り戻そうとする運動であり、指導部に戦争の進め方を変えさせる力を持っていました。第一次世界大戦における国家と兵士の関係を考えるうえで、今なお重要な教訓を残す出来事といえるでしょう。