1930年代から1940年代初頭にかけて、ドイツ・イタリア・日本を中心とする枢軸国が拡張政策を推し進める中、各国の反応は政治的イデオロギー、国益、地理的な位置関係によって大きく異なっていました。ここでは、当時の主な対応をいくつかの観点から整理して見ていきます。
1. 非難と宥和政策
多くの国々は、枢軸国、特にドイツ、イタリア、日本による侵略的な行動に対して公に非難を表明しました。しかし、イギリスやフランスなどの一部の国は、戦争を回避することを優先し、宥和(ゆうわ)政策を採用しました。1938年のミュンヘン会談におけるチェコスロバキアのズデーテン地方割譲は、この政策の代表例として知られています。
2. 抵抗と対立
一方で、ソビエト連邦、中国、アメリカ合衆国などは枢軸国の拡大に抵抗し、その攻撃的な政策に強く反対しました。ソ連は極東で日本と武力衝突を繰り返し、第二次世界大戦では東部戦線でドイツと激しく戦いました。また、中国は1937年に始まった日本軍の全面侵攻に抵抗し、終戦まで戦い続けました。
3. 中立・非同盟の立場
一部の国々は中立の立場を堅持し、非同盟政策を pursue しました。これらの国々は、枢軸国と連合国の間の紛争に巻き込まれることを避けようとしました。たとえば、スイスやスウェーデンなどは戦争期間中も中立を維持し、外交的距離を保ちました。
4. 経済制裁
各国は、枢軸国に行動の変更を迫る手段として経済制裁を活用しました。特にアメリカは、日本、ドイツ、イタリアによる侵略行動への対応として経済制裁を課しました。1941年の対日石油輸出禁止は、その後の真珠湾攻撃につながる重要な要因の一つとなりました。
5. 枢軸国側への加担
ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイなど一部の国は、イデオロギー的な共感、経済的利益、あるいは地政学的な計算から枢軸国陣営に加わりました。これらの国々は、領土拡大の見返りや安全保障上の理由から枢軸国との同盟を選択したケースも少なくありません。
6. 第二次世界大戦と連合国の結成
枢軸国が拡張主義的政策を継続し、軍事侵攻を重ねるにつれ、多くの国が最終的に連合国側に加わって対抗しました。アメリカは1941年12月の日本による真珠湾攻撃を受けて参戦します。こうしてアメリカ、ソ連、イギリスなどを中心とする「グランド・アライアンス(大同盟)」が形成され、各国は枢軸国を打倒するために軍事的・経済的に協力しました。
7. 国際機関と外交努力
国際連盟などの国際機関は、懸念に対処し紛争を調停しようと試みましたが、紛争の激化を食い止めることはほぼ不可能でした。満洲事変(1931年)やエチオピア侵攻(1935年)への対応で国際連盟の無力さが露呈し、集団安全保障の限界が明らかになりました。