ヨーロッパの歴史

ナポレオン・フランソワ・ジョゼフ・シャルル・ボナパルトとは?「ナポレオン2世」の悲劇的な生涯を解説

ナポレオン・フランソワ・ジョゼフ・シャルル・ボナパルト(Napoléon François Joseph Charles Bonaparte、1811年〜1832年)は、一般に「ナポレオン2世」として知られる人物です。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトと、その后であるオーストリア皇女マリー・ルイーズとの間に生まれた一人息子であり、誕生と同時に「ローマ王」の称号を授けられました。父の後継者としてフランス皇帝の座を約束されていたものの、その生涯は波乱と悲劇に満ちたものでした。

誕生と「ローマ王」の称号

1811年3月20日、パリで誕生した彼は、出生と同時にローマ王の称号を与えられました。これは当時のフランスにおいて皇太子に相当する最高位の称号であり、ボナパルト朝の未来を担う存在として盛大に祝われました。しかし結局、彼が皇帝として即位することは一度もありませんでした。

ナポレオン失脚後の運命

1814年、ナポレオン・ボナパルトが退位すると、ウィーン会議を経てヨーロッパの国際秩序は再編されました。フランスではブルボン朝が復活し、ルイ18世が王位に就きます。ナポレオン2世は母マリー・ルイーズとともにオーストリアへ移り、外祖父にあたるオーストリア皇帝フランツ2世(フランシス2世)の保護下で暮らすことになりました。

「ライヒシュタット公」としての人生

1815年、父ナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し、百日天下が幕を閉じると、ナポレオン2世がフランス皇帝となる可能性は完全に消えました。以降、彼は「ライヒシュタット公(Duke of Reichstadt)」の称号で呼ばれるようになります。主にウィーンを拠点としてオーストリアで生活し、皇子にふさわしい教育を受け、とりわけ軍事史に強い関心を抱いて育ちました。父のような軍人になることを夢見ていたとも伝えられています。

夭逝という悲劇的な最期

しかし、彼の人生はあまりに短く終わりました。結核を患ったナポレオン2世は、1832年7月22日、ウィーンのシェーンブルン宮殿にて、わずか21歳でこの世を去りました。フランス皇帝として即位する機会を一度も得られないまま亡くなったため、歴史上は「戴冠されなかった皇帝」として記憶されています。

彼は「雛鷲(L'Aiglon)」の愛称でも広く知られており、父ナポレオンの栄光と没落を映し出す存在として、エドモン・ロスタンの戯曲『雛鷹』をはじめ、後世の文学や芸術の題材にもなりました。実権を握ることのなかったナポレオン2世は、今なお多くの歴史愛好家の興味と想像を掻き立てる、謎めいた人物であり続けています。