ヨーロッパの歴史

国王が議会に軍隊を送り込んだらどうなる?――チャールズ1世の誤算とイングランド内戦

1642年1月、イングランド国王チャールズ1世は武装した兵士を庶民院(下院)に送り込み、反対派の下院議員5名の逮捕を試みました。この強硬な措置は議会との決定的な対立を招き、やがてイングランド内戦(清教徒革命)へと発展します。内戦は1651年まで断続的に続き、その結果、現職の国王が処刑され、共和制国家「イングランド共和国」が誕生するという、イギリス史上最大級の転換点となりました。

背景:王権と議会の対立

17世紀初頭のイングランドは、国王と議会が権力を分かち合う政体をとっていました。しかし、国王は「王の権力は神に由来する」という王权神授説を主張してさらなる権限拡大を望み、一方の議会は課税承認権などを武器に王権を制限しようとしたため、両者の緊張は次第に高まっていきました。

特に財政問題が大きな火種となりました。戦争費用をめぐる対立が重なり、チャールズ1世は1629年から約11年間、議会を召集しないまま専断統治を行いました。ところがスコットランドでの主教戦争が勃発すると巨額の軍費が必要になり、1640年にやむなく議会を開かざるを得なくなります。これが後に「長期議会」と呼ばれる議会です。

長期議会は王権を縛る一連の法制を次々と成立させました。その代表格が、3年ごとに少なくとも一度は議会を召集することを義務づけた「三年議会法」(1641年)です。さらに国王の側近ストラフォード伯爵が処刑されるなど、議会の勢いは増す一方でした。

これに強く反発したチャールズ1世は、無議会統治への回帰を図ります。そして1642年1月、自身の統治に批判的な急進派議員5名(ジョン・ピム、ジョン・ハムデンら)の逮捕のため、兵士を率いて庶民院に乗り込みました。しかし議員たちはすでに退避しており、逮捕は失敗に終わります。在位中の国王が議場に武力を持ち込むのは前例のない暴挙とみなされ、国王と議会の関係はもはや修復できないところまで悪化しました。

イングランド内戦の展開

1642年8月、チャールズ1世はノッティンガムで王旗を掲げ、ついに内戦が勃発しました。国王側(王党派・騎士党)と議会側(ラウンドヘッズ)の間で第一次内戦(1642〜1646年)が繰り広げられます。

序盤は王党派が優勢でしたが、オリバー・クロムウェルが率いる「鉄騎隊」や、それを母体として編成された新模範軍の活躍により、議会軍は次第に形勢を逆転させます。1645年のネーズビーの戦いでの決定的勝利を経て、1646年にチャールズ1世は降伏しました。

その後も捕虜となった国王との交渉は決裂し、第二次内戦(1648年)が起こります。これを機に議会内の急進派は国王との妥協を断念し、1649年1月、チャールズ1世は「人民の代表である議会に背いた反逆者」として斬首刑に処されました。同年、貴族院と王政そのものが廃止され、共和制の「イングランド共和国(コモンウェルス)」が樹立されます。

クロムウェルはアイルランドとスコットランドの抵抗を鎮圧し、1653年には「護国卿(ロード・プロテクター)」として事実上の最高権力者となりました。しかし彼が1658年に死去すると体制は急速に不安定化し、1660年には王政復古が実現してチャールズ2世が即位します。

内戦がもたらしたもの

イングランド内戦とその後の動乱は、イギリスのみならず世界の歴史に深い足跡を残しました。

  • 国王処刑という前例: 神聖視されてきた国王が、自国の臣民の手で裁かれ処刑された事実は、以後の政治思想に計り知れない衝撃を与えました。
  • 共和制の実験: 短命に終わったとはいえ、大規模な共和政国家を運営した経験は、後世の革命思想に重要な示唆を与えました。
  • 政治思想の発展: 『リヴァイアサン』を著したホッブズ、個人の自由と良心の自由を説いたミルトンやハリントンらが登場し、個人の権利や政教分離の観念が育まれました。
  • 立憲君主制への道: 「王といえども法の上に立たない」という原則が定着し、1688年の名誉革命を経て、議会を中心とする近代的な立憲君主制の確立へとつながっていきました。

もしチャールズ1世が議会への武力行使という危険な賭けに出ていなければ、歴史はまったく異なる展開を迎えていたかもしれません。しかし現実には、彼の選択は王政そのものを揺るがす大革命への扉を開いてしまったのです。絶対的権力を守ろうとした一手が、かえって王権の限界を世界に示す結果となった――この皮肉こそ、イングランド内戦が現代に残した最大の教訓だと言えるでしょう。