第一次世界大戦期のイタリアは、同盟国を単純に「裏切った」というよりも、自国の利益に従って陣営を乗り換えたというのが実態に近いでしょう。以下では、その経緯を順を追って解説します。
三国同盟の一員だったイタリア
イタリアは1882年、ドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国と「三国同盟」を締結していました。この同盟はもともと防衛目的の性格が強く、フランスやロシアへの対処を主な狙いとしたものでした。つまり、大戦勃発の時点で、イタリアは中央同盟国(ドイツ・オーストリア側)の陣営に属していたのです。
開戦時には「中立」を選択
しかし1914年に戦争が始まると、イタリアは直ちに参戦しませんでした。イタリア政府は、三国同盟があくまで防御的な同盟であり、オーストリア=ハンガリーがセルビアへ先制攻撃を行った今回の開戦は「防御的事由」に当たらないと主張し、中立を宣言しました。これは条約上の義務を形式的に守りながら、実質的に同盟から距離を置く判断でした。
ロンドン密約と連合国への鞍替え
その後、イタリアは両陣営と同時に交渉を進め、どちらがより多くの領土を提供するかを見極めようとしました。そして1915年4月、連合国側(英・仏・露)との間で秘密条約となる「ロンドン密約」を締結します。この密約では、トリエステ、イストラ半島、ダルマチア地方の一部、南チロルなど、かつてオーストリア領とされてきた地域の割譲が約束されました。
こうした見返りを確保したイタリアは、1915年5月23日にオーストリア=ハンガリーに対して宣戦布告し、連合国側として第一次世界大戦に参戦しました。さらに翌1916年8月にはドイツに対しても宣戦しています。
「裏切り」の本質は領土的野心
この一連の行動を動かしたのは、イデオロギーや同盟上の義務ではなく、あくまで領土拡張という国家的野心でした。「未回収のイタリア(イレデンタ)」と呼ばれる民族回帰主義の思潮が背景にあり、歴史的なイタリア領の回復を掲げる世論が参戦を後押ししました。
結果として、イタリアはかつての同盟相手であるオーストリア=ハンガリーと、アルプス戦線やイゾンツォ川沿いで激しい戦闘を繰り広げることになります。同盟国から連合国への移籍は「裏切り」と呼ばれることもありますが、実際には戦前から三国同盟の結束が脆かったこと、そして各国が自国の利益を最優先していたことが、この離反の真因だったといえるでしょう。