18世紀初頭の数十年間、オスマン帝国から領土を奪取したヨーロッパの大国は、オーストリア(ハプスブルク帝国)とロシア帝国の2か国です。両国はそれぞれ軍事的な勝利と外交交渉を通じて、帝国の辺境地域を次々と手に入れていきました。
パッサロヴィッツ条約(1718年)――オーストリアの躍進
1716年から1718年にかけてのオーストリア・トルコ戦争で勝利したハプスブルク家のオーストリアは、1718年に締結されたパッサロヴィッツ条約により、以下の領土を獲得しました。
- ハンガリーの一部(バナト地方など)
- セルビア
- ワラキア西部(現在のルーマニア南部に位置するオルテニア地方)
これにより、オーストリアはドナウ川流域とバルカン半島北部への影響力を大きく拡大し、東南欧における強国としての地位を確立することになりました。
ロシアの南下政策とアゾフをめぐる攻防
一方のロシア帝国では、ピョートル大帝が黒海への出口を求めて南下政策を強力に推し進めていました。1696年にはアゾフ要塞を攻略し、黒海北岸への足がかりを築きます。
しかし、1710年から1711年の露土戦争で敗北した結果、締結されたプルト条約(1711年)により、ロシアは一時的にアゾフをオスマン帝国へ返還することを余儀なくされました。その後、1739年のニシュ条約でアゾフを再び手にし、18世紀後半にはクリミア半島や黒海北岸全域を支配下に収めていくことになります。
まとめ
18世紀初頭のオスマン帝国は、西ではオーストリアに、北ではロシアに領土を侵食されていきました。パッサロヴィッツ条約によるオーストリアの大幅な領土拡大と、ロシアによる黒海方面への進出は、その後の「東方問題」へとつながる重要な転換点となったのです。