ヨーロッパの歴史

アメリカはいつホロコーストを知ったのか?米国政府の認識と対応の歴史

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるユダヤ人の組織的虐殺、すなわち「ホロコースト」について、アメリカ政府はさまざまな情報源から段階的にその実態を把握していきました。本記事では、米国がホロコーストの情報を得た主要な節目を時系列で解説します。

1939年:迫害の初期報告

1939年の時点で、アメリカ政府は外交官や諜報機関を通じた報告により、強制収容所の設立、大量逮捕、ユダヤ人に対する隔離や屈辱的な扱いといった、ナチスによるユダヤ人迫害の情報を受け取っていました。

1942年:詳細な報告と目撃証言の到着

1942年に入ると、脱出に成功した囚人、ポーランドの地下抵抗組織、ユダヤ人団体などからの情報により、ナチスの残虐行為に関するより詳細な報告や目撃証言がアメリカへ届き始めました。

リーグナー電報(1942年8月)

1942年8月、スイスに駐在していた世界ユダヤ人会議の代表ゲルハルト・リーグナーから送られた「リーグナー電報」が米国財務省に届きました。この電報は、ユダヤ人を絶滅させるための「最終的解決」が進行していると警告するものでした。

ポーランド白書(1942年12月)

1942年12月、ポーランド亡命政府からの報告書、いわゆる「ポーランド白書」が米国務省に提出され、占領下ポーランドにおけるナチスのユダヤ人への犯罪行為が詳しく記録されました。

1943年以降:さらなる証拠の蓄積

1943年11月、アメリカ政府はドイツの外交電報を傍受・解読し、「ヘットル電報」として知られる文書を入手しました。そこには、ユダヤ人の大量移送と絶滅に関する計画が言及されていました。

知りながら動かなかった米国政府

ナチスの残虐行為に対する認識が高まり、証拠が積み重ねられていったにもかかわらず、フランクリン・ルーズベルト大統統領やコーデル・ハル国務長官をはじめとする米国政府の要人の一部は、決定的な行動を取ることや、ユダヤ人迫害に対して公に声を上げることに消極的でした。こうした姿勢は、後年大きな批判を受けることになります。

収容所解放と真実の全貌

1944年から1945年にかけてナチスの強制収容所が次々と解放されると、ホロコーストの全貌が明らかになりました。ようやくこの時、ジェノサイドの真の恐怖と規模が、アメリカ国民そして世界中に広く知られることとなったのです。