古代の歴史

ピッグス湾侵攻――米国が仕掛けたキューバ革命政権転覆作戦の全貌

ピッグス湾侵攻――米国が仕掛けたキューバ革命政権転覆作戦の全貌

1959年、フィデル・カストロ率いる「7月26日運動」による革命政権の樹立は、大きく二つの要因によって可能となった。ひとつは武力による独裁者フルヘンシオ・バティスタ政権の打倒、そしてもうひとつはカストロ自身を含む指導層が示した政治的曖昧さである。実のところ、米国は当初、バティスタに立ち向かうカストロ兄弟のゲリラ闘争を重要なものとして支持していた。当時のカストロにはマルクス主義的言説の痕跡はまだなく、政策における曖昧さゆえに多くの共感と支援を集めていたのである。

新政権は発足直後から、経済分野を中心とした抜本的な改革法を次々と制定していった。これは当然ながら米国に大きな打撃を与えた。米国企業や農園はまず接収され、やがて正式な没収へと至ったからだ。さらに砂糖も、従来のような米国側の条件での購入ではなく、キューバ独自の条件で輸出されるようになった。

一方で、バティスタ政権の崩壊がすべてのキューバ人にとって満足のいくものであったわけでもない。革命軍の到着前に島を去った大量の亡命者の存在がそれを物語っている。この亡命者たちの大半は元警察・軍の幹部やバティスタ政権の関係者であり、彼らは米国マイアミに拠点を置いた。キューバに近いこの地から、最初の反カストロ運動が生まれていくことになる。

その後のソ連との協定締結により、米国は新しいキューバが自国の世界戦略に対する脅威であることを確信するに至った。ホワイトハウスの大統領執務室では、島への侵攻計画が策定され始めた。そこで軍事力として利用されることになったのがマイアミの亡命者たちである。こうすることで、作戦は単なる「侵略」ではなく「解放」であるという印象を与えられるはずだった。

侵攻計画の立案と第2506旅団

米国の物的資源とキューバ亡命者の人的戦力――この組み合わせこそが、キューバ革命政権打倒のための「完璧な処方箋」と考えられた。侵攻計画は何度も修正を重ねながら、最終的に組織的な作戦計画として固まっていった。当初、後に第2506旅団と呼ばれる部隊は、数十名の元バティスタ軍将校にすぎなかった。募兵は1960年4月から5月にかけて始まっている[1]。彼らは次第に数を増やし、複数の大隊からなる無視できない戦闘部隊へと成長した。現在知られる資料によれば、第2506旅団の総兵力は約1,200〜1,500名であったとされる。

ピッグス湾侵攻――米国が仕掛けたキューバ革命政権転覆作戦の全貌

第2506旅団は7個大隊で構成されていた。第1大隊は空挺部隊で、主要拠点や周辺の製糖工場を確保するために降下させる予定だった。第2、第5、第6大隊は歩兵部隊である。第3大隊は機械化部隊で、トラックとM41装甲車5両が配備された。第4大隊は重火器部隊である。そして最後の第7大隊は予備兵力としてグアテマラの基地に留まり、情勢の推移を見守ることになっていた。

当初想定されていた展開案は、かつてフィデル・カストロが自ら行ったように、少数の反革命ゲリラ部隊をキューバの山岳地帯に送り込むというものだった。そのため旅団はグアテマラへ送られ、生存術とゲリラ戦の訓練を約8週間にわたって受けた[2]。しかし1960年末になると戦略構想は再び変更される。米国人顧問団はゲリラ訓練を放棄し、通常の水陸両用上陸作戦の技術訓練へと切り替えたのである。

もちろん、武器や物資はすべて米国から供給された。興味深いことに、侵攻計画の立案段階で米国は、これらの資源が自国のものであることが知られるのを避けようとした。そこで亡命者たちには「すべて匿名のキューバ人大富豪の出資によるものだ」と説明したのである。しかし第2506旅団の兵士たちは、すぐにこの「匿名の大富豪」を「サムおじさん」と呼ぶようになった[3]。武器は多種多様で、いずれも第二次世界大戦の余剰軍需品であった。

さらに第2506旅団は、いわゆる「解放空軍」の支援を受けることになった。これはB-26爆撃機の小規模な飛行隊からなる小さな空軍である。パイロットの多くは飛行時間100時間未満の学生だったが、民間航空会社から募集され、バティスタ空軍を一時的に経験した者もいた[4]。準備が整うと、反カストロの軍事部隊は、CIAがキューバ企業から買い取った5隻の船に乗せられてピッグス湾へと輸送されることになった。

ピッグス湾上陸作戦

ピッグス湾侵攻は4つの段階で実施された。作戦は1961年4月14日に開始された。まず160名の小部隊がグァンタナモ方面から侵入し、カストロ軍を東へ引きつける囮となるはずだった。しかし海岸近くに差しかかったところで、民兵部隊のタバコの火と思われる灯りを目撃した彼らは引き返し、任務を中止した。同じ日、旅団を乗せた輸送船とそれを護衛する米駆逐艦は、ヒロンの浜辺沖に陣取った。船上の兵士たちは、海上に出るまで上陸地点を告げられなかったという。

ピッグス湾侵攻――米国が仕掛けたキューバ革命政権転覆作戦の全貌

4月15日、航空作戦が開始された。キューバ空軍の塗装を施したB-26爆撃機の飛行隊が、島内の標的への爆撃を開始したのである。最初の目標はカストロ側の小規模な空軍の排除だった。しかし革命政府はすでに航空機を島中の各地に隠して偽装しており、この目標は達成できなかった。攻撃による損害は比較的軽微で、キューバ空軍は壊滅を免れた[5]。キューバの対空砲も活発に応戦したものの、敵機を撃墜するには至らなかった。その日の明け方に落ちた爆弾はエルネスト・「チェ」・ゲバラ司令官の眠りを覚ますこととなり、彼はこう言い放った。「やつらがついに攻撃してきやがった」[6]。

4月16日、爆撃が続くなか、一連の外交的反応が起こった。キューバは国連の場で、この攻撃の背後に米国がいると非難した。同日、ジョン・F・ケネディ大統領は進行中の侵攻への本格的な介入を拒否し、事態の推移を見守る姿勢をとった。また同じ日、革命の指導者フィデル・カストロは極めて重要な声明を発表した。1959年以来初めて、カストロはこの革命の社会主義的性格を明らかにしたのである。

翌4月17日、第2506旅団の上陸が始まった。上陸自体は計画どおり進んだが、部隊はほどなくして圧倒されることになる。迎え撃つキューバ側の新戦力の大部分は、チェコ、ソ連、ベルギー製の装備で武装した民兵たちだった。旅団の兵士たちはビーチに大量の武器を揚陸し、その中にはキューバ側のT-34/85戦車1両を行動不能に追い込んだM41装甲車数両も含まれていた。上陸当日、C-47輸送機に乗った空挺大隊も降下している。両部隊は協力していくつかの小さな町を占領した。数時間にわたり混乱が支配したものの、フィデル・カストロは旅団の突破を阻止するための戦力を急速に集結させた。革命軍は輸送船「リオ・エスコンディド号」に対して勝利を収めた。同船はシー・フューリー戦闘機の攻撃を受けて沈んだのである[7]。

4月18日は終日、旅団の兵士と民兵たちが休みなく戦い続けた。第2506旅団が迫撃砲を保有していたのに対し、カストロ軍は122mm砲をもって橋頭堡を攻撃した。米国の支援がないまま、侵攻部隊の士気は下がっていった。確かにその日、彼らはカストロ派の反撃を撃退することには成功したものの、自らの陣地を超えて前進することはできなかった。その一方で、民兵と正規軍はますます組織化され、ビーチへと迫りつつあった。中でも第1大隊の空挺兵たちは、最も激しい攻撃に耐え抜いた部隊である。両陣営とも戦闘において勇猛さを発揮したが、旅団は米国政府に事実上看捨てられた。ケネディ大統領がこれ以上の介入を拒んだからである。

4月19日、反革命部隊はついに降伏した。自らが制圧していた狭い区域の中でである。航空支援と補給の欠如が、政府軍のはるかに大規模な部隊に包囲されていたプレイア・ヒロンの男たちの運命を決定づけた。早朝のうちに各抵抗グループは相次いでキューバ軍に投降した。第2506旅団の大多数は捕虜となり、ハバナへ送られた。そこでの扱いは概して良好だったという。

ピッグス湾侵攻――米国が仕掛けたキューバ革命政権転覆作戦の全貌

結果と影響

プレイア・ヒロンにおける軍事的勝利は、フィデル・カストロ率いる革命政権にとっても大きな宣伝上・政治上の勝利となった。宣伝面では、「ヒロンは北米帝国主義にとって初の敗北であった」と喧伝された。政治面では、侵攻者との共謀が疑われた反カストロ勢力への取り締まりが可能となり、多数の逮捕命令が発せられたことで、7月26日運動はあらゆる反対勢力を一掃することができた。後に多くの反体制派が釈放されたのは事実だが、各運動の指導部はすでに断ち切られてしまっていた。

1,000名を超える捕虜は、その後、多額の資金(特に遠征隊の指導者たちについては高額)と医薬品の提供と引き換えに帰還を許された。しかし1960年代後半まで、国内の山岳地帯には小規模な抵抗グループが残存していた。数的に見れば、ピッグス湾の戦いでの損害は決して大きくはない。キューバ軍の戦死者は161名[8]、負傷者は約300名だった。一方、第2506旅団は110〜120名の遠征隊員を失い、負傷者は数百名に上った。

参考文献

  • Anderson, J. Lee (2013): Che Guevara. A Revolutionary Life. Barcelona: Anagrama. pp. 479-482.
  • De Quesada, A. (2009): The Bay of Pigs, Cuba 1961. London: Osprey Publishing.
  • Rodríguez, Juan C. (2005): Girón, la batalla inevitable. La operación más colosal de la CIA contra Fidel Castro. La Habana: Ed. Capitán San Luis.
  • Thomas, H. (1974): Cuba: La lucha por la libertad 1762-1970, Vol. III “La República Socialista 1959-1970”. Barcelona: Grijalbo. pp. 1729-1751.

注釈

  • [1] Rodríguez, 2005, p. 49.
  • [2] 同上。
  • [3] De Quesada, 2009, p. 9.
  • [4] 同上, p. 11.
  • [5] Rodríguez, 2005, p. 236.
  • [6] Anderson, 2013, p. 480.
  • [7] Thomas, 1974, p. 1734.
  • [8] De Quesada, 2009, p. 46.