本名はジャン=ダヴィド・ノー(Jean-David Nau)。カリブ海ではフランス大西洋岸の港町レ・サーブル・ドルンヌ出身であることから「ドルンヌの男(L'Olonnais)」の異名で知られた。漁師や船乗りだった可能性があり、海に精通していたことは疑いない。1650年から1660年にかけてアンガジェ(契約移民・契約労働者)としてカリブ海に渡り、3年の義務奉仕を終えるとイスパニョーラ島、さらにブッカニア(ブッカニア)の拠点であるトルチューガ島へ移った。
この島を二、三度訪れるうちに総督ムッシュー・ド・ラ・プラスの目に留まり、一隻の船を与えられて船長となる。わずか20名の部下でスタートしたが、生来の統率力と総督との利益分配契約により、まもなく8隻400名を率いる大船団を指揮するまでになった。
スペイン人への執念深い憎悪
外科医にしてブッカニアでもあったアレクサンドル・オ・エスクメランの著書『アメリカのブッカニア』(1678年初版オランダ語)によれば、ロロネの最大の特徴はスペイン人への執念深い憎悪と、彼らに見せた残虐性にある。囚人が望む自白をしない場合、彼らを切り刻み「舌で刃の血を舐め取った……」と記されるほどだ。ロロネの生涯について知られているほぼ全ては、このエスクメランの筆によるものである。
カンペチェでの生還とキューバ襲撃
最初に記録された行動はメキシコのカンペチェでの出来事だ。嵐で乗組員が打ち上げられたところをスペイン軍に襲われ、ロロネ自身も負傷するが、砂と血で身を覆い死んだふりをして難を逃れた。茂みに逃げ込み傷を癒やし、逃亡中に出会った奴隷たちの助けでカヌーを入手、トルチューガ島へ帰還する。
そこで大型の丸木舟2隻と20名のブッカニアを集め、キューバのロス・カヨスへ向かう。発見されると住民の要請で総督が10門の砲を備えた船を派遣したが、ロロネは夜襲をかけ、カヌーを船の両舷に展開して砲火を避け乗り込んだ。乗組員を甲板下に追い込み、一人ずつ引きずり出して斬首。黒人の処刑人も含め全員を殺害し、スペイン人一人だけを生かして総督へ侮辱的な伝言を託した。「どんなスペイン人にも情けはかけぬ。貴様らが俺に向かわせた連中と同じ目に、貴様自身も遭わせてやりたい」と。この事件とカンペチェでの仕打ちが、彼のスペイン人への憎悪を決定づけたと見られる。
マラカイボ遠征:略奪と拷問の極み
奪取した船でベネズエラのマラカイボ港へ向かい、銀を積んだ船を拿捕してトルチューガへ凱旋。次なる大遠征を計画し、400名の志願者を集めた。ミシェル・ル・バスクと提携し、彼が陸上作戦を、ロロネが海上作戦を指揮することで合意。1667年4月、総勢600名、8隻の艦隊が出撃した。
イスパニョーラ島での補給と戦利品
まずイスパニョーラ島の北東沿岸で補給を行い、カカオを積んだスペイン船と遭遇。3時間の激戦の末に拿捕し、カカオのほか4万レアル(8レアル銀貨換算)と1万レアル分の宝飾品を得た。船と積荷はトルチューガへ送られ、総督が喜んで荷揚げし、補給物資を積み返してくれた(ブッカニアにとって命綱である)。
マラカイボ攻略
7月末、マラカイボ湖口のバラ砦を剣と拳銃のみで強襲、陥落させた。艦隊が湖内へ入りマラカイボ市へ向かうと住民は逃亡していたが、森に潜む者たちを捕らえ、ヘンリー・モルガンさながらに拷問にかけて隠し財宝の在処を吐かせた。ロロネはある囚人を切り刻みながら「残りの財宝を吐かねば、お前たち全員にも同じことをする」と叫んだという。
ジブラルタルの戦いと虐殺
2週間の略奪後、湖の反対側の町ジブラルタルへ向かう。総督が400名、市が400名の計800名を動員し砲台を構えて待ち受けていた。ロロネは380名を選び、各自に剣、拳銃1〜2丁、火薬30発を持たせ、「恐れを見せた者はこの手で撃つ」「来い、兄弟たちよ、勇気を持て」と檄を飛ばした。部下たちは握手を交わし突撃したが、守備側の抵抗は激しく撤退を強いられる。ここでロロネは撤退を装う古典的戦術で守備隊をおびき出し、急転直下の反撃で壊滅させ、砲台と町を制圧した。
エスクメランによればスペイン側の死者500名、捕虜150名、さらに500名の奴隷・女性・子供がロロネの手に渡った。ブッカニア側の死傷者は各40名程度とされ、スペイン側の犠牲者数は誇張の可能性が高いが、ロロネが遺体を2隻に積んで湖へ沈めたため真相は闇の中だ。
拷問による身代金と戦利品の分配
ジブラルタルでも囚人・住民への拷問が繰り返された。「自白しない者にはサーベルで肉を削ぎ取り舌を引き抜く。世界中のスペイン人すべてに同じことをしてやりたい」とエスクメランは記す。この恐怖戦術は功を奏し、1ヶ月後に撤退する際には1万レアルの身代金、マラカイボからさらに2万レアル、500頭の牛、教会の鐘と聖像を得た。
イスパニョーラ島南東沖のバカ島で分配が行われ、総額26万レアル(8レアル銀貨)に宝飾品、絹や亜麻布などが加わった。慣例通り負傷者が優先され、傷の重さに応じて加算。船長・外科医・大工など専門職は多めに、戦死者の分も友人が受け取って遺族へ渡した。総督への上納も欠かさず、以前拿捕したカカオ積み船の積荷価値の20分の1を支払ったとされる。

尽きぬ野望:ニカラグア・グラナダへの遠征
ロロネは次の大計画として、ヘンリー・モルガンが1663〜65年に成功させたニカラグア湖畔の都市グラナダ襲撃の再現を図った。浅瀬の河川・湖での行動や奇襲に適したカヌーを得るため、キューバ南岸で漁師からカヌーを強奪。700名、6隻の艦隊を編成し、マラカイボで拿捕した大型スペイン船(旗艦、300名乗艦)を加えて出撃した。
難航とプエルト・カバジョス襲撃
しかし今回は順風満帆とはいかなかった。予期せぬ「重い凪」に阻まれ、ニカラグア・ホンジュラス国境のグラシアス・ア・ディオス岬沖へ流される。補給を目的に沿岸の集落を襲い、アグアン川をカヌーで遡ってインディオのトウモロコシ・豚・鶏を略奪。海上ではプエルト・カバジョスに達し、スペインの倉庫2棟を空にして放火、捕虜を取り、24門砲を備え石工16名を乗せたスペイン船を拿捕した。エスクメランはここでの拷問を「野蛮人が考案し得る最も恥知らずで非人道的な残虐行為」と記すが、著者の誇張も含まれていよう。
サン・ペドロ・スーラ攻防と最大の残虐行為
ロロネは部隊を分け、オランダ人副長モーセス・ファン・クレインに港の監視を任せ、自らは300名を率いて内陸のサン・ペドロ・スーラへ向かった。道中、スペイン軍の執拗な伏撃を受けながら、「火球(手榴弾)」、「拳銃」、「剣」で猛烈な突撃を繰り返し前進する。ここでロロネの最大の残虐行為とされるエピソードが生じる。捕虜のスペイン兵数名に、先の伏撃がどこまで続くか、別ルートはないかを尋問したのだ。彼らは「これ以上続くか不明、別ルートも知らない」と答えた。これに激昂したロロネは、エスクメランによれば以下のように振る舞ったという。
「彼は怒りに狂い、剣を抜いてそのうちの一人の胸を裂き、まだ脈打つ心臓を引き抜いて噛み砕き、他の囚人たちに『これがお前たちにも待ってる運命だ、吐け』と見せつけた」
この描写は誇張めいているが、ロロネの「血塗られたブッカニア」としてのイメージ形成の一環だった。しかし効果は薄く、サン・ペドロ・スーラは大砲と茨の防壁で固く守られていた。ブッカニアはスペイン軍の発砲のたびに伏せ、手榴弾とマスケット銃で応戦する膠着状態に陥り、最終的にスペイン側が白旗を掲げた。降伏協定により住民には2時間の猶予が与えられ、ブッカニアは約束を守ったが、得られたのはインディゴ染料の俵数俵のみ。住民の追跡も失敗に終わった。
ホンジュラス湾での長期滞在とスペイン船拿捕
ロロネ一行は海岸へ戻り、ホンジュラス湾で約3ヶ月を費やして船の手入れ(ケアニング)を行い、ウミガメを狩って食糧とした。スペインからの肥沃な船を待ち伏せ、グアテマラ川河口で42門砲、乗員130名の武装船を発見。いつものようにカヌー4隻を両舷に展開、煙幕を張って硝煙の濃い中に乗り込み拿捕するが、積荷は鉄塊50個、紙、ワインのみと判明し、またも空振りに終わった。
残酷な海賊、残酷な最期
新たな標的を求め、ロロネはグアテマラへの侵攻を提案するが、ファン・クレインやピエール・ル・ピカールら多くの部下が懐疑的となり、独自の活動へ去っていった。補給不足に陥ったロロネはホンジュラス湾を渡り真珠諸島で食糧を探すが、猿や動物を食らうほどの窮地に。乗っていた大型船(マラカイボで拿捕した同船)が島々の間で座礁し、約半年間ここで過ごすことになる。豆や果実を栽培し、スペイン産小麦を携帯用オーブンで焼き、座礁船の材木と釘でバージ(平底船)を建造。くじ引きで乗組員を分け、ロロネはサン・ファン川河口へ向かったが、スペイン軍とインディオの襲撃を受け多くの部下を失う。
生き残ったクルーでダリエン湾(カルタヘナ近郊)に上陸し、真珠諸島に残した仲間を救うためカヌーを奪おうとしたところで災難が降りかかる。現地のインディオに捕らえられ、「生きたまま四肢を切り離され、一つずつ火に投げ込まれ、灰は空中に撒かれた」。エスクメランは生存者の一人からこの顛末を聞いたと記し、他の乗組員も同様に八つ裂きにされ焼かれたという。史上最も著名な海賊の一人、その残虐さで知られた男の最期は、彼自身が撒いた恐怖と同じ形で訪れたのである。
ロロネの残虐性は特別だったのか?
しかし、ロロネの振る舞いは当時として例外的だったのだろうか。彼の拷問・虐待の多くはヘンリー・モルガンの手法を模倣したものであり、囚人への残虐行為も財宝や情報を得るための手段であって、快楽のためではなかった。主要情報源であるエスクメラン自身もブッカニアであり、1670年のパナマ襲撃でモルガンと共に行動した人物だ。彼がスペイン人に好感を持っていなかったこと、物語を面白くし読者を惹きつけるためにロロネの残虐性を誇張した可能性は否定できない。また、黒ひげ(エドワード・ティーチ)のように、自ら「非情な海賊」のイメージを演出することで、スペイン都市・船舶の即時降伏や囚人の自白、部下の募集に役立てようとした面もあったはずだ。
そうは言っても、17世紀カリブ海のブッカニアという暴力的な世界においてさえ、ロロネの言動には心理的な狂気めいた要素があり、彼を「並外れて暴力的な海賊」たらしめていることは否めない。
参考文献
- Alexandre O. Exquemelin, Buccaneers of America (Carlos Barral編, マドリード, 1999).
- Konstam, A. (2010): The World Atlas of Pirates. Guilford: Lyons Press.
- Travers, T. (2007): Pirates, a History. Chalford: Tempus Publishing.
本稿は『デスペルタ・フェロ現代史 第16号』に掲載された次号予告『デスペルタ・フェロ現代史 第17号:カリブ海の海賊』のプレビュー記事です。