古代の歴史

第二次世界大戦:パリのヒトラー――1940年フランス侵攻の背景と経緯

1939年9月、ヒトラーがポーランドへ侵攻すると、フランスとイギリスは、兵員・兵器の両面でドイツに追いつき、対等な立場でヒトラーと対決することを望んでいた。しかし、ある偶然の出来事がその構図を大きく変えることになる。

背景――極秘文書を巡る「メヘレン事件」

1940年1月、ドイツのヘルムート・ラインベルガー少佐は、友人を同乗させてケルンへ向かった。そこで彼は極秘文書――オランダおよびベルギーへの空軍侵攻計画――を届ける予定だった。ところが暴風雨のため進路を変更せざるを得なくなり、さらにエンジンの不具合が発生して、機はベルギー領内に不時着してしまう。二人は文書を破棄する前に捕らえられ、ベルギーの軍事拠点へ連行された。

文書には、ベルギーとオランダを経由して北フランスへ侵攻する計画が詳細に記されていた。にもかかわらず、ベルギーは中立の立場を維持し続けたのである。

主要人物

  • ドイツ側:フォン・ルントシュテット将軍、フォン・ボック将軍、フォン・クライスト将軍(騎兵)、そして戦車部隊指揮官のアーヴィン・ロンメル少将
  • フランス側:モーリス・ガムラン将軍(参謀総長)、ジョルジュ将軍

作戦の開始――「鎌の一撃」

1940年5月10日、先頭の戦車部隊(パンツァー)がルクセンブルク国境を越えた。ここに「鎌の一撃(ジヒェルシュニット)」作戦が発動される。ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)には複数の任務が課されていた。すなわち、イギリス海峡への機雷敷設、オランダ・ベルギー・フランス各地の飛行場への攻撃、そして約4,000名の落下傘兵を擁する第22空挺師団の輸送である。

ルフトヴァッフェの猛威はまずオランダに向けられた。戦闘機はハーグの街路を機銃掃射し、爆撃機は各飛行場へ攻撃を集中させた。

難攻不落と言われたエベン=エマール要塞の陥落

ベルギーには、リエージュを守備する要塞「エベン=エマール」があった。無数の砲門を備え、歩兵大隊が駐留する堅固な要塞である。この無力化の任務は、Ju 52輸送機に曳航された大型グライダーで突入する、志願のドイツ工兵部隊に託された。結果は驚くべきものだった――わずか24時間足らずで、小規模な部隊がこの要塞を制圧してしまったのである。

フランス側の誤算

フランスでは、ガムラン将軍が「ディール=ブレダ計画」の発動を命じた。彼は、すべてが自らの思い描いた通りに進んでいると信じていたのだ。一方、ルフトヴァッフェは、アルデンヌの狭い道路にひしめく戦車部隊(フォン・ルントシュテット将軍の指揮する部隊)を見張り、敵の偵察機にその集結を察知されないよう警戒に当たった。その縦列は全長160キロに及んでいた。連合国側は、ドイツ軍の主力がベルギー平原から攻めてくるものと確信していたのである。

包囲網の影

ドイツ軍の初期の快進撃は、連合国軍をしてディール川への到達を急がせることとなった。だが彼らは、まさにその瞬間、A軍集団がアルデンヌの森を抜けて前進しつつあることを疑いさえしなかった。連合国軍が前面に躍り出たとき、彼らはすでに完全な包囲網の中にいたのだ。

このとき、ドイツ軍の戦車部隊は、突破口となる出口から160キロ離れたアルデンヌの狭い道路上で立ち往生していた。もし連合国側がこの大規模な前進の存在に気づいていれば、その動きを未然に食い止めることができた可能性もある。

同じ頃イギリスでは、チェンバレンの辞任を受けて、ウィンストン・チャーチルが首相に就任した。

その後――パリ陥落とヒトラーの来訪

ドイツ軍は破竹の勢いで進撃を続け、6月14日にパリへ入城した。すでにフランス政府はボルドーへ退避していた。6月22日、コンピエーニュの森で独仏休戦協定が調印され、翌23日の早朝、ヒトラーはパリを訪れた。エッフェル塔や凱旋門を背景に撮影された、占領下パリでのあの有名な写真である。こうしてフランス戦役は、開戦からわずか6週間で幕を閉じた。