古代の歴史

1919年サンフランシスコ、マスク着用義務に立ち向かった「反マスク・リーグ」の誕生秘話

近年、新型コロナウイルスの緊急事態延長を巡る協議が行われていたさなか、武装した一団が米ミシガン州の州議会議事堂になだれ込むという事件が起きた。実は、こうした過激な反応は北米社会の一部に見られる特徴的な現象であり、パンデミック下で起きたのも今回が初めてではない。1918年のスペイン風邪流行時にも、政府の要請に断固反対する市民団体——サンフランシスコ反マスク・リーグ(Anti-Mask League)が組織されていたのだ。

世界を震撼させたスペイン風邪とは

スペイン風邪は、ヒト型A(H1N1)型インフルエンザウイルス(オルトミクソウイルス科アルファインフルエンザウイルス属)が引き起こす疾患である。その恐ろしさは、子どもや高齢者だけでなく、若年層や健康な成人、さらには家畜までも重篤化させうる点にあった。

被害をさらに拡大したのが、当時の世界情勢、すなわち第一次世界大戦である。戦争は常として、栄養失調や衛生環境の悪化、各種疾病によって体力を削ぎ、兵士の生活環境や帰還などを通じて感染経路を広げ、パンデミックの影響を増幅させた。

1919年サンフランシスコ、マスク着用義務に立ち向かった「反マスク・リーグ」の誕生秘話

1917年秋にはすでにいくつかの軍事キャンプで第一波が発生していたとみられるが、当時はまだ致命的ではなく、公式記録上の最初の症例は1918年3月4日、米カンザス州フォート・ライリーでのものである。しかし同年夏、ウイルスは致命的な変異を遂げ、欧州へ派遣される米軍の主要上陸港だったフランスのブレストで最悪の形態となって現れた。そこからフランス全土へ広がり、イギリス、イタリア、ドイツと大陸各国へと蔓延していった。

「スペイン風邪」という名前の由来

その中には、参戦していないはずのスペインも含まれていた。皮肉なことに、交戦国による報道統制と対照的に、中立国スペインでは報道の自由があったため関連ニュースが次々と発信され、あたかもスペインだけが被災し、感染源になったかのような印象を与えた。『タイムズ』紙の見出しなどがきっかけとなり、「スペイン風邪」という誤った名称が定着し、歴史に残ることになったのである。

スペイン自身も20万人の死者を出し、他国と同じく三つの波に見舞われた。最も深刻な二波が1918年に、第三波が1919年に襲来し、1920年には小規模な再燃があったものの、集団免疫の形成により影響は限定的だった。

1919年サンフランシスコ、マスク着用義務に立ち向かった「反マスク・リーグ」の誕生秘話

パンデミックが戦争と世界に与えた衝撃

あまり知られていないことだが、このパンデミックは大戦の遂行にも影響を及ぼした。ドイツは100万人もの将兵を病院に収容せざるを得なくなり、作戦能力に大きな打撃を受けたのである。全体の死者数は4000万〜5000万人に達し、死亡率は資料により差があるものの感染者の10%〜20%、感染率は世界人口の約50%と推計されている。

症状としては、高熱、嘔吐、下痢、呼吸困難、極度の疲労、皮膚の灰色への変色などが現れ、悪化すれば最長5日以内に死に至ることもあった。

死者数最多は中国か、それともアメリカか

死者数が最も多かったのは推定3000万人(信頼できるデータはない)の中国とされ、一部の研究者はここを感染源の一つと位置づけている。確定的な証拠はないものの、今日では米国が研究の中心であり、西側世界で最多となる50万〜67万5000人の死者(感染者の28%)を出した。病院の過密、換気不足、安置所や墓地に遺体が積み上げられる惨状が、この悲劇的な数字を生んだ。

さらに感染の急増により薬剤が不足し、二次性細菌性肺炎に加え、急性肺出血や肺水腫による死亡が相次いだ。当初、米政府は対欧州派兵の中止を検討したが、最終的には軍の判断が優先され、合計150万人の将兵が大西洋を渡った。その多くはすでに発病しており、航海中に亡くなる者も少なくなかった。

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サンフランシスコの防疫対策

ここからが本題のサンフランシスコである。同市では1918年初秋に流行が確認され、9月最終週に初の症例が記録された。2週間後には患者数が2000人に達し、保健委員会は直ちに対策を講じた。公共施設(学校や劇場など)の閉鎖、集会の禁止、そして市民への距離確保の呼びかけである。

各地から届く深刻な報道を受けて、当局は予防策を強化した。まず理髪師、レジ係、店員、薬剤師など、接客を伴う職業の人々にマスク着用を義務づけた。続いて同年10月25日には、外出するすべての市民、あるいは2人以上で集まる者全員へと義務が拡大された。外してよいのは食事の時だけだった。

1919年サンフランシスコ、マスク着用義務に立ち向かった「反マスク・リーグ」の誕生秘話

罰金、投獄、そして市長も例外なし

不満の声こそあったものの、大多数の市民は大きな混乱なく規則を受け入れ、80%がマスクを着用した。高い意識(違反者は「怠惰者」と呼ばれた)、マスクをファッションとして売り込む巧妙なプロモーション、そして「治安妨害」の罪名による罰金や投獄といった措置が功を奏したのである。保健局長官、判事2名、海軍将官がマスク不着用で罰金を支払うと、その模範は広く浸透した。ジェームズ・ロルフ市長自身も、マスクなしでボクシング観戦に出かけようとして捕まり、罰金を払わされたほどだ。もちろん、従わない者を銃撃で諭そうとした役人までいたという。

一方、赤十字社は前述の罰金額(5〜10ドル)の寄付を受け、鉄道駅、路面電車、フェリーターミナルなどの要所で低価格のマスク販売を担った。

1919年サンフランシスコ、マスク着用義務に立ち向かった「反マスク・リーグ」の誕生秘話

「反マスク・リーグ」結成へ

11月後半、感染者数は落ち着き、第一次大戦も終結した。そこで市民の歓喜の中、マスク着用義務は撤廃された。ところがその後2ヶ月で感染者は再び急増し、新年早々の1919年1月17日、当局は方針を転換して義務を復活させる。

これが、我慢の限界に達していた抵抗派にとっては重すぎる負担だった。彼らは今回はより本格的で組織的な抗議活動へと踏み出す。こうしてサンフランシスコ反マスク・リーグが誕生したのである。E・C・ハリントン夫人を議長に迎えたリーグは、わずか1週間後の1月25日、旧ドリームランド・スケートリンクで創立総会を開催した。

人口の1%程度を代表するにすぎないとはいえ、決して奇人の集まる少数派団体ではなかった。集会には実に5000人が参加し、米国にありがちな頑迷な市民権擁護派だけでなく、複数の医師や公衆衛生システムの責任者たちまで顔を揃えていたのだ。

1919年サンフランシスコ、マスク着用義務に立ち向かった「反マスク・リーグ」の誕生秘話

議論の焦点

討論は多岐にわたった。市民の個人の自由の侵害、科学報告の信頼性への疑問、そして市政の保健行政を担う政治家に対する解任請願の可能性まで、テーマは幅広かった。

しかし、ウィリアム・C・ハスラー保健局長(誰かが爆弾を送りつけられたが、幸い死傷者は出なかった)は毅然として譲らなかった。妻が病気だった市長の支持に加え、実業家や労働組合からの後押しもあったからだ。

興味深いことに、他都市や州の衛生行政の幹部たちまでもが「マスクは必要でも有用でもない」として抗議運動に加わり、擁護派との間で激しい論争が繰り広げられた。論争は続き、リーグのメンバーの一部が署名活動の準備を進める一方、別のメンバーは義務撤回の公式請願を提出した。国内外の報道機関がこの騒動を大きく取り上げたが、それは長くは続かなかった。

1919年サンフランシスコ、マスク着用義務に立ち向かった「反マスク・リーグ」の誕生秘話

自然が下した決着

物事に終止符を打ったのは、ほかならぬ自然そのものだった。前述のとおり、1919年の第三波は先の二波よりも穏やかだった。体内に免疫が形成されていたこと(ウイルスが弱毒化した可能性もある)によるものである。病状の沈静化のためか、リーグの圧力のためかはともかく、2月にはマスク着用義務は解除された。

そして皮肉なことに、リーグの主張は結果的に正しかった。当時のマスクはすべて綿ではなくガーゼ製であり、感染防止の効果は実際にはほとんどなかったのだ。