1914年9月7日の夜、フランス北東部は前代未聞の光景の舞台となった。パリの廃兵院(アンヴァリッド)を出発した何百台ものタクシーが、兵士を乗せて、前方の車のテールライトを頼りに、ひっきりなしにマルヌ渓谷へと向かっていたのである。
その理由は、ドイツ軍の攻勢を食い止めるために部隊を同地に集中させる必要があったからだ。傍受した無線信号と航空偵察によって確認された情報によれば、この攻勢によってマヌール将軍率いる第6軍が包囲される危機に瀕していた。これが、いわゆる「マルヌの戦い」の始まりである。「奇跡」とも呼ばれるこの戦いは、誰もが予想しなかった形で敵の進撃を食い止めたことから、「マルヌの奇跡(Miracle of the Marne)」という名で知られるようになった。

開戦当初の苦しい戦況
実際のところ、当時の状況はフランス軍とその同盟国であるイギリス軍にとって決して楽観できるものではなかった。7月28日に第一次世界大戦が勃発して以来、交戦国は隣接する各地域で一連の攻防戦を繰り広げてきた(そのため「国境の戦い」と呼ばれる)。これは両陣営それぞれの作戦思想に基づくものであった。すなわち、ドイツ側の「シュリーフェン・プラン」――指揮はヘルムート・フォン・モルトケ将軍に委ねられていた――と、フランス側の「プランXVII」――ジョゼフ・ジョフル将軍が主導した――である。
シュリーフェン・プラン
創案者の名を冠するこの計画の目的は、ベルギーを経由してフランスに侵攻することだった。その展開は、チェスでチェックメイトのために駒を犠牲にする発想に基づいていた。つまり、ヴィスワ川下流を境界とする東プロイセンを放棄し、最大限の兵力――150万人――を西部戦線に集中させて速やかな勝利を目指すのである。しかしシュリーフェンは1913年に死去しており、後を継いだモルトケはそこまで大きな賭けに出ることを望まなかった。ロシアの攻撃を予見し、東部の守備をそこまで薄くすることを避けたのだ。
フランスのプランXVII
一方、フェルディナン・フォッシュの構想をもとに1913年に策定されたフランスの計画は、非現実的な考えに基づいていた。生来闘志にあふれるはずのフランス兵の精神論や、攻撃こそ唯一許容される戦争形態だという思想である。その目的は、ドイツ軍に先んじて、1871年の普仏戦争で失ったアルザスとロレーヌを回復することにあった。

この任務に投入されたのは4個軍団だったが、敵と同じく北方面の守備が手薄になり、わずか1個軍しか残せなかった。ベルギー領侵犯はイギリス帝国による宣戦布告を意味することから、ベルギーが緩衝材として機能することが期待されていたのである。
国境の戦いとドイツ軍の猛進
こうして両国はそれぞれの計画を実行に移した。フランス軍は当初ミュルーズとコルマールの占領に成功したものの、アルデンヌ、シャルルロワ、モンスでは予想以上の抵抗に阻まれた。獲得した地域を放棄するだけでなく、反撃に備えて自国領土の防衛のため出発点まで退却せざるを得なくなった。一方ドイツ軍は、ほぼ抵抗を受けずにベルギーを突破し(ベルギー軍はアントウェルペンとリエージュに籠城)、フランスへ侵入した。前述の通り北部の守備が手薄だったため、8月末にはパリ到達すら脅威となりつつあった。
イギリス派遣軍(BEF)――ジョン・フレンチ将軍の指揮のもと送られた部隊(イギリスは実際に8月4日に対独宣戦布告を行っている)――の到着は、まさに一筋の希望となった。またフランス軍最高司令部は、プランXVIIの一部戦力をマルヌ方面へ振り向けなければならなかった。それでもなお、ナイフのように切り込んでくるドイツ軍の攻勢を食い止めるには不十分で、パリはますます近づきつつあった。

BEFは最北端で押され始め、フォン・クルック率いる第1軍とフォン・ビューロー率いる第2軍に追われながら、フランス第5軍とともにオワーズ川、セル川、エーヌ川、ウルク川の線まで南へ撤退した。メス、ティオンヴィル、ロンウィ、モンメディ、モーブージュの各要塞は包囲された。
歴史を分岐させた二つの要因
9月2日、フォン・モルトケはフォン・クルックとフォン・ビューローに「大指令」を伝えた。パリの包囲は忘れ、段階的に前進しつつ西方から敵を包囲し、一挙に殲滅することに集中せよ、という命令である。しかしここで、事態を狂わせる二つの出来事が起きた。
ガリエニの大胆な発想――タクシー動員
ひとつは、首都防衛を担うジョゼフ・シモン・ガリエニ将軍が断行した、絶望的でありながらも想像力に富んだ施策である。利用可能な670台のタクシーを徴発し、増援部隊をマルヌへ輸送したのだ。6千人の予備役兵が1台5人ずつ、往復2便に分かれて乗り込み、50キロに及ぶ前例のない機械化輸送が実現した。その数の少なさと装備の貧弱さゆえに効果は限定的だったものの、最も士気を必要としていた瞬間において、兵たちの士気を高める効果は確実にあった。

命令に従わなかったフォン・クルック
もうひとつの要因は、フォン・クルックが指示に従わなかったことだ。9月2日、西方向へ旋回する代わりに南東方向へ進み続けたため、フォン・ビューローとの間に数十キロの間隔が空いてしまった。しかも上官に報告したのは2日後で、知らせを受けたモルトケから返答もなかった。やがて両軍の間隔は約50キロにまで広がっていった。
連合軍の反撃
この隙を見逃さなかったのが連合軍の指揮官たちである。彼らはここに最後の好機を見出し、ヘンリー・ウィルソン中将(当初は消極的だった)の指揮するBEFの2個師団と、フランス第5軍を投入した。第5軍の指揮官チャールズ・ランレザック将軍は更迭され、代わりにルイ・フランシェ・デスペレーが着任した。彼は銃剣突撃を先導しながら軍楽隊に「ラ・マルセイエーズ」を演奏させたことで人気を博していた人物である。

各部隊は異なる地点からドイツ軍を攻撃することとなり、戦術的主導権は再び連合軍の手に戻った。ガリエニ率いる第6軍もこの計画に加わり、真っ先にウルク川沿いでドイツ第4予備軍団を攻撃して足止めした。第5軍もフォン・ビューローの軍を後退させた。
対照的にBEFは、数的優位を保っていたにもかかわらず目標にすら近づけず、3日間でわずか40キロしか前進できず、フランス側の苛立つところとなった。フォン・クルックは依然として勝利を確信していたが、パリからの予備役兵の到着(タクシーだけでなくトラックや列車でも運ばれた)が、天秤を連合軍側へ傾かせた。
撤退命令と塹壕戦への転換
9月8日夜、通信が途絶えていたため、モルトケは副官を派遣して現状を確認させた。この将校は、フォン・ビューローとフォン・クルックが包囲される危険性を確認し、撤退を命じた。両将軍はしぶしぶこれに従い、エーヌ県で再編成して反攻に備える考えだった。しかし敵に追撃され、為す術は塹壕を掘って待つことだけだった。9月13日の時点でモルトケはシュリーフェン・プランの失敗を認め、伝説によれば、皇帝ウィルヘルム2世に「我々は今、戦争に負けた」とまで告げたという。ジョフルも似たような言葉を残している。「マルヌの戦いで誰が勝ったのかは知らない。だが誰が負けたかは知っている」

実際に起こったのは、ひとつの時代の終わりと、全く異なる予期せぬ恐ろしい時代の幕開けだった。以後数年間、両軍は「无人地帯」に隔てられ、互いの戦線を突破できないまま膠着することになる。砲撃、機関銃、毒ガス、そして病気が毎日数千人の犠牲者を出した。それが塹壕戦である。マルヌ(1918年にはさらに血なまぐさい第二次マルヌの戦いの舞台となる)、ソンム、ヴェルダン……。
犠牲者の数
犠牲者について言えば、マルヌの戦いに関する公式な統計は存在せず、延べ50万人以上が参戦し、単一の会戦ではなく複数の戦闘の集合体だったため、歴史家たちの推計も正確とは言い難い。概算では、フランス軍の戦死者約8万人、ドイツ軍約6万8千人、イギリス軍1千7百人とされ、負傷者の数ははるかに多かったとされる。
あのタクシーのその後
ところで、あのタクシーたちはどうなったのか? 任務完了の翌日である9月8日、大半は解役されてパリへ帰還した(一部は救急車として使用するため引き留められた)。最も興味深いのは、メーターを作動させ続けるよう命令されており、フランス財務省が実際に相当額を支払ったことだ。金額は7万フランを超えたという。

この特異な出来事の記憶は、首都の廃兵院にある陸軍博物館(Musée de l'Armée)に今も息づいている。ガリエニの命令で集結した場所こそ、まさにそこだからだ。当時の車両のひとつ、特徴的な赤色に塗られたルノーAGが保存されている。以来、このモデルは「マルヌのタクシー(Taxi de la Marne)」として知られることになった。