1944年、連合国はすでに第二次世界大戦の勝利を確信していた。イタリアでの前進、ソ連の西進、そしてノルマンディー上陸作戦の成功により、ドイツの占領統治に向けた準備が進められていた。その中で、アメリカ財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアが提唱したのが、ドイツの工業力を徹底的に破壊し、再軍備を不可能にする「モーゲンソー・プラン」である。しかし、冷戦の到来により、この計画はわずか2年で転換を余儀なくされることになる。
ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアの経歴
1891年、ニューヨークの裕福な家庭に生まれたモーゲンソーは、建築学と農業工学を学んだ。農業工学の知識を活かし、クリスマスツリー用のモミの木栽培事業を手がける傍ら、雑誌『アメリカン・アグリカルチュリスト』の編集長(1922年就任)として農業の近代化を訴えた。
この頃、フランクリン・ルーズベルト(後の大統領)と出会い、ルーズベルトがニューヨーク州知事になると、州農業諮問委員会委員長と州自然保護委員会委員長に任命される。1933年、ルーズベルトが大統領に就任すると、金価格の引き上げによるデフレ対策を提案した功績が認められ、財務長官に抜擢された。
興味深いことに、モーゲンソーはケインズ主義に反対し、民間投資を重視し、ルーズベルトの介入主義政策「ニューディール」にも懐疑的だった。長官在任中は、FBIの協力を得て汚職撲滅と国家債務削減に注力した。
ユダヤ人救済への取り組み
モーゲンソーは自らのユダヤ系という出自を忘れず、ナチスの迫害を受ける欧州のユダヤ人救済にも尽力した。1943年には世界ユダヤ人会議(WJC)の開催を推進し、スイスの口座を活用した救出工作を展開。さらに戦争難民委員会(WRB)を設立し、亡命ユダヤ人の入国手続きを簡素化することで、約20万人がアメリカへ渡る道を開いた。
1944年夏には、捕虜となった主要ナチス戦犯100人の裁判と処刑を提案。しかし、ヒトラー政権の責任はドイツ国家全体に及ぶと考え、同年のうちに「ドイツ降伏後の推奨プログラム」と題する覚書をルーズベルトに提出した。これがモーゲンソー・プランの原型となる。
計画の策定と主要人物
覚書の起草には、財務省での右腕であり国務省との連絡役でもあったハリー・デクスター・ホワイトが協力した。リトアニア系ユダヤ移民の子孫であるホワイトは、国際金融の専門家として平和維持のための国際機関創設を提唱し、IMFと世界銀行の設立に主導的役割を果たし、1944年7月のブレトン・ウッズ会議ではアメリカ代表を務めた。
ホワイトはソ連との協調を重視し、ソ連への親近感を隠さなかった。この姿勢が後の1948年、ソ連へのスパイ容疑(ヴェノナ計画で発覚)で告発されるきっかけとなる。心臓発作で証言の2日後に死去し、裁判は回避されたが、その経歴は計画の背景に影を落とすことになる。
モーゲンソー・プランの全容
ルーズベルトに提出された覚書には、ドイツの軍事的再生を永久に封じ込めるための過激な措置が盛り込まれていた。
完全非武装化と工業解体
降伏後、最短期間での完全非武装化を要求。全兵器と兵器工場(関連施設含む)の破壊を定め、工業地帯であるルール盆地、ラインラント、キール運河以北の地域が主な対象となった。これらの施設は6ヶ月以内に完全解体し、機械設備は賠償として接収、残存施設は破壊する。住民には他地域への移住を促し、跡地は国連機関管理の国際地帯とする。賠償の一環として、国外ドイツ資産の没収、強制労働の供出、さらには不妊手術まで視野に入れられていた。
ドイツの分割統治
ルール地方とキール運河は国際管理下に置き、上シュレジエンと東プロイセンの3分の2をポーランドに、残りをソ連に割譲。西部ではデンマークが南ユトランドを、フランスがザールラントとライン・モーゼル川間の地域を併合。残ったドイツ領土は、南部(バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン等)と北部(ザクセン、テューリンゲン、ポーランド・ソ連に割譲されなかったプロイセン地域)の2つの自立国家に分割し、北部は1938年国境に基づきオーストリアと関税同盟を結ぶこととされた。
政権内部の対立とケベック会議
モーゲンソーの強硬論は、ドイツ経済の復興を通じて賠償支払い能力を回復させようとした国務長官コーデル・ハルの方針と真っ向から対立した。モーゲンソーは「ドイツ人には軍隊のスープを1日3杯与え、その経験を一生忘れさせろ。そうしなければ10年で再び戦争を始める」と主張した。
ルーズベルトはモーゲンソー、ハル、陸軍長官ヘンリー・スティムソンの3者委員会を設置したが、それぞれが譲らず対立が深まった。ハルが病に倒れたため、1944年9月の第2回ケベック会議にはモーゲンソーが出席。ルーズベルトはスターリンとの関係構築も意図し、強硬姿勢を示した「今回こそドイツ人に、自分たちが確実に負けたのだと知らしめよ」と述べた。
しかしチャーチルは「イギリスが死体に鎖で繋がれることになる」と全面賛成を拒否。科学顧問フレデリック・リンデマンを通じた交渉の末、アメリカが65億ドルの融資を提供する見返りにイギリスが修正案を受け入れる形で妥結。分割統治案は撤回され、オーダー・ナイセ線(ポーランドへの東部領土割譲)が採用された。アンソニー・イーデンらの反対や、ハルの「40%のドイツ人が餓死する」との警告もあったが、計画は進められた。
情報漏洩と世論の反発
1944年9月、財務省内部から覚書がリークされ(ホワイトがソ連情報機関にも事前提供していた)、ドリュー・ピアソン記者が報道。『ウォール・ストリート・ジャーナル』や『ニューヨーク・タイムズ』は「ドイツの抵抗を強め、戦争を長引かせる」と批判。ゲッベルスは「ユダヤ人のモーゲンソーがローズベルトとチャーチルの助けでドイツ人を絶滅させ、『ジャガイモ畑』にしようとしている」とプロパガンダに利用した。
現場の軍部も反発。マーシャル参謀総長、ブラッドレー大将、ルーズベルトの娘婿ジョン・ベッティガー中佐らは、アーヘン攻略で30個師団分の損害が出たと訴えた。世論と軍部の猛反発を受け、ルーズベルトは関与を否定する形で後退。間もなくルーズベルトが死去し、トルーマン副大統領が大統領に就任した。
占領指令JCS 1067とその限界
トルーマンは、モーゲンソー・プランに概ね沿ったJCS 1067指令を発し、アメリカ占領区での軍政を開始。鉄鋼生産を戦前比25%に制限し、1,500工場を閉鎖。その他産業も1938年比50%に抑制。ポツダム会議の合意に基づき、ドイツ人の生活水準を他のヨーロッパ諸国以上にしないとされ、専門家は「2,500万人が餓死する」と警告した。
しかし、ドイツは欧州経済の機関車であり、その貧困化は周辺国の復興をも阻害した。占領国はGARIOA(占領地域政府援助救済計画)で多額の費用を負担せざるを得なかった。最大の懸念は、飢餓と絶望の中でドイツ人が共産主義に傾斜するリスクだった。冷戦勃発の文脈下、この危機感が方針転換を迫ることになる。
「希望の演説」とマーシャル・プランへの道
1946年9月、新国務長官ジェームズ・バーンスがシュトゥットガルトで「ドイツ政策の再表明」と題する演説を行い、モーゲンソー・プランの正式な終了を宣言。「希望の演説」として知られるこの演説は、協力と再建の時代、すなわちマーシャル・プランへの道を開いた。トルーマンはJCS 1067をJCS 1779に置き換え、通貨改革(1948年)が「ラインの奇跡(Wirtschaftswunder)」の端緒となった。
ただし、多くの工業設備がフランスとソ連に移転済みであり、餓死者や関連死者は多発した。400万人以上の捕虜が「武装解除敵軍」の名目でジュネーブ条約を回避する形で強制労働に従事。1953年、西ドイツは11億ドルの占領費用返還に合意し、1971年に完済した。
モーゲンソーの晩年
1945年秋、モーゲンソーは著書『ドイツは我々の問題』を出版。アイゼンハワー将軍(アメリカ占領区軍政長官)が将校1,000人に配布し、暗黙の支持を示した。しかしトルーマン就任とともに辞任。その後はユダヤ人慈善事業に従事し、イスラエルの財務顧問も務め、自らの名を冠した農業集落も設立された。1967年、ニューヨーク州ポキプシーで死去した。