古代ギリシャ世界には数多くの神託所が存在しましたが、その中で最も重要視されていたのは、間違いなくデルフォイです。ディディマ、ドドナ、オリンピア、クラロス、エフィラ、デロスなど各地の神託所を訪れた人々の多くは、財力が許す限り、デルフォイでも改めて伺いを立てたといわれています。
とはいえ、デルフォイが最古の神託所だったわけではありません。その栄誉は、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』にもすでに登場するドドナのものです。しかしデルフォイは、最も豊かで影響力のある聖域の一つでした。
ピュティア――神の言葉を伝える巫女
デルフォイのアポロン神殿に仕える巫女は「ピュティア」と呼ばれました。彼女は、地の裂け目から立ち上るガスによってトランス状態に陥るよう、三脚の台(トリポッド)に座りました。そして、その身を通して語りかける神の言葉を、参詣者たちに伝えたのです。

神託はしばしば謎めいた表現で、多様な解釈の余地を残すものでした。プルタルコスは次のように述べています。

ピュティアとその預言は決して無謬ではなく、ギリシャ人自身もそれをよく理解していました。彼女の啓示は客観的な真理とはみなされず、だからこそ人々は複数の神託所に同じ質問を投げかけたのです。
約1100年に及ぶ聖域の歴史
フォキス地方のパルナッソス山の南斜面に広がるデルフォイの聖域は、紀元前750年頃に創建されました。神託そのものが姿を消した後も、ギリシャ世界がほぼキリスト教化していた西暦424年まで、なお一定の活動を続けていたことを示す記録があります。その寿命はおよそ1100年に及ぶのです。
この長い期間の大部分において、神託はその予言や預言を通じて、まずギリシャの、のちにはローマ世界の政治・宗教生活に絶大な影響力をふるいました。ピュティアを訪れたのは偉大な王から農民まで実にさまざまで、費用を払えるのであれば誰でも伺いを立てることができました。
クロイソス王が仕掛けた「信頼性テスト」
ピュティアが歴史を通じて下した答えのうち、500件以上が古代の文献に収録されて今日に伝わっています。ただし、そのうちどれが本物かを見極めるのは容易ではありません。それらが保存されてきたのは、歴史的に重要だったためか、文学的に際立っていたためです。
中でも特に有名なのが、紀元前560年の出来事です。リュディア王クロイソスは、ギリシャの主要な神託所すべてに同時に伺いを立てさせ、どれが最も信頼できるのかを確かめようとしたのです。

クロイソスは全ての神託所へ使者を派遣し、「同じ日、同じ時刻に、クロイソス王は今何をしているのか」と尋ねるよう命じました。これに対して正確に答えたのはデルフォイだけで、「王は今まさに、子羊と亀の煮込みを作っている」と告げたといいます。
満足したクロイソスは、再びデルフォイに(念のため、同時に別の神託所にも)問いかけました。「ペルシアを攻撃すべきか」。返ってきた答えはこうです。「攻めるならば、お前は一つの帝国を滅ぼすことになろう」。
もちろん、滅ぼされた帝国とは、クロイソス自身の帝国のことでした。

ローマ支配下での衰退
ローマの占領は、聖域衰退の始まりとなりました。プルタルコス(46年~127年)は生涯の最後の30年間、アンフィクティオニア(近隣諸国同盟)の管理者であり、神殿の主任祭司として、事実上の聖域の責任者としてピュティアの神託の解釈に携わりましたが、彼はデルフォイを包む荒廃の空気について語っています。彼の時代には、ピュティアはもはや韻文ではなく散文で答えるようになっており、神託の政治的影響力はほぼ完全に失われていました。
キリスト教の台頭と、なお続いたピュティア祭
とどめを刺したのは、新しい宗教キリスト教の到来でした。ギリシャ・ローマ世界にキリスト教が広まるにつれて神託所を訪れる人は減り続け、神託所は次第に沈黙していきました。古代のキリスト教著作家たちは神託とピュティア双方の権威を失墜させようと図り、ピュティアは悪魔に憑かれた女として描かれることも少なくありませんでした。
しかしその後も、アンフィクティオニアは機能し続け、ピュティア祭(ピュティア競技祭)を主催していました。当初は8年ごとに、のちには4年ごとにオリンピア祭と交互に行われたこの祭典について、『テオドシウス法典』15.5.4には西暦424年時点での言及があり、依然として催されていたことを示唆しています。

ユリアヌス帝の問いと「最後の神託」
361年から363年まで在位した皇帝ユリアヌス2世――キリスト教徒から「背教者」と呼ばれた男――は、古代の異教を復興させ、キリスト教の拡大を食い止めようとしました。そのために、デルフォイの神託に伺いを立てる以上にふさわしい行動はありませんでした。362年、彼は侍医オリバシオスをデルフォイへ遣わし、ピュティアに尋ねさせます。そして返ってきた答えこそ、デルフォイの神託の「最後の言葉」とされるものです。
見事に造られた大広間は崩れ落ちた。
フォイボス(アポロン)にはもはや小屋もなく、
予言の月桂樹もなく、語る泉もない。
語りし水さえも、涸れ果ててしまったのだ。
この神託は、アリウス派の教会史家フィロストルギオス(439年頃没)の『教会史』に保存されました。原典は今日まで伝わっていませんが、9世紀にフォティオスがその著作を『ミュリオビブリオン』の中で取り上げ、内容の梗概を書き留めており、それが現存しています。
「アポロンは死んだ」のか、それとも救いの叫びか
キリスト教側の学者たちは、この言葉を単純に「構うな、アポロンはもう死んだのだ」という意味だと解釈しました。長らく、この言葉はユリアヌスを嘲笑うために捏造されたものにすぎないと考えられてきました。ところが現在では多くの学者が、もし本物であるなら、まったく別の読み方ができると考えています。それは、助けを求める嘆きなのだと。

実際、11世紀のビザンツ年代記作者ゲオルギオス・ケドレノスは、ユリアヌスがオリバシオスをデルフォイに派遣したのは「神殿の再建を手配するため」だったと記しています。そうであれば、この神託の答えは、神殿と聖域の劣悪な状態ゆえに、この再建計画を進めるべき必要性を皇帝に確認させたことになります。
「すべては終わった」という逸話
一方、393年にテオドシウス帝が異教の神殿を恒久的に閉鎖し、オリンピックを禁止した勅令と結びつけて、「すべては終わった」という言葉をデルフォイの神託の最後の言葉として引用する場合もあります。これは1892年にギルバート・E・A・グリンドルが著した『コンスタンティヌスからユスティニアヌスまで――ローマ帝国における異教の破壊』に由来するとされますが、オンラインで閲覧できる同書の2つの版を調べても、そのような言葉の痕跡は見つかりませんでした。
とはいえ、認めざるを得ません。もし本当にそういう言葉だったのなら、それは実に見事な幕切れだったでしょう。