古代の歴史

ペリクレスの葬送演説――史上最も有名なスピーチとその遺産

紀元前431年、スパルタとアテネの間でペロポネソス戦争が勃発しました。この戦争は約28年間にわたって続き、最終的にはスパルタが勝利を収めます。しかしその覇権は長くは続かず、まずテーバイが、次いでマケドニアがギリシャ世界の主導権を握ることになりました。本記事では、この大戦争の中でも特別な意味を持つ「ある演説」について掘り下げます。

ペリクレスの葬送演説――史上最も有名なスピーチとその遺産

アテネの戦没者葬送儀礼

開戦から1年が経過した頃、アテネ市民は慣例に従い、戦没者を追悼し称えるための式典に集まりました。トゥキュディデスの記述によれば、式典では10基の棺――アテネの各部族ごとに1基ずつの糸杉製の棺に加え、行方不明者を偲ぶために常に1基が空のまま据えられた棺――を運び、アテネ最大の墓地ケラメイコスへと向かう行列が行われたといいます。ケラメイコスは今日でも訪れることのできる史跡です。墓地では、ポリスを代表する人物の中から選ばれた演者が、追悼の辞を朗々と述べたのです。

この年の式典で弔辞を託されたのは、アテネの指導者にして「第一の市民」ペリクレスでした。彼は控えめな言葉で語り始め、やがて戦没者だけでなく、歴史の転換点にあったアテネという国家そのものをも讃えていきます。

史上最も有名な演説

歴史家トマス・カヒールをはじめ多くの研究者によれば、ペリクレスのこの葬送演説は「史上最も有名な演説」とされています。この演説をご存じない読者は「自分は聞いたことがない」と思うかもしれません。しかしそれは誤りです。少なくともここ2、3世紀の西洋政治に関心を持ってきた人なら、演説の多くの部分に聞き覚えがあるはずだからです。

ペリクレスの葬送演説――史上最も有名なスピーチとその遺産

古代ギリシャに源流を持つ文化圏の政治家たちによる後世の数多くの演説は、ペリクレスの葬送演説に着想を得ていたか、あるいはその一部を直接借用していたのです。

演説の構成――控えめな書き出し

演説は、戦没者の公葬という伝統への賛辞と、「私の言葉がすべての人を満足させることはあるまい」という警告から始まります。

ペリクレスの葬送演説――史上最も有名なスピーチとその遺産

トマス・カヒールら専門家によれば、この控えめな書き出しは必然的に、ゲティスバーグにおけるリンカーンの言葉を思い起こさせます。

ちなみに同じ式典で最長の弔辞を述べたエドワード・エヴェレットも、冒頭でアテネの先例に言及して演説を始めています。

民主主義への誇り

ペリクレスは戦没者の功績を讃えますが、過去の軍事的勝利については軽く触れるにとどめ、むしろアテネがいかにして現在の地位に至ったのか、そして彼らが何よりも誇りとした統治形態――民主主義――に焦点を当てます。

ペリクレスの葬送演説――史上最も有名なスピーチとその遺産

さらに彼は、すべての市民が正義の前で平等であること(もちろん自由民に限られますが)、これらの原則が外交政策にも及んでいること、そして都市が外国人にも開かれていることを強調します。

続いて、アテネ人が他者に対していかに寛容であり、援助において惜しみなく、自らの制度の有効性を固く信じているかを説きます。

この一節には、ケネディ大統領の就任演説の面影を見て取ることができるでしょう。

幸福は自由に、自由は勇気に

そして演説のクライマックスで、ペリクレスは都市の偉大さと亡くなった英雄たちを結びつけ、「幸福は自由に基づき、自由は勇気に基づく」という結論を提示します。

自由のための犠牲を強調するこの姿勢は、第二次世界大戦中、ウィンストン・チャーチルが首相就任直後の演説で英国民に向けた有名な言葉「血と労苦と涙と汗」にも響いています。チャーチルがトゥキュディデスの著作とアテネの弔辞を深く理解していたことを考えれば、これは決して偶然ではありません。

最後にペリクレスは短いエピローグで、死者について語ることの難しさを聴衆に思い起こさせ、演説を締めくくります。

ペリクレスの葬送演説――史上最も有名なスピーチとその遺産

真実性と作者をめぐる議論

トゥキュディデスは著作の冒頭で、自身が記録する演説は逐語的な記録ではなく、述べられた内容の趣旨を伝えるものであると注意を促しています。ペリクレスが実際にこの演説を行い、本質的にはトゥキュディデスが書いた通りのことを語ったのはほぼ確実ですが、歴史家がそれを自らの言葉で表現したと考えるのが妥当でしょう。

一方、葬送演説の作者については異論もあります。例えばプラトンは『メネクセノス』の中で、この演説をペリクレスの伴侶アスパシアの作としています。ただし、プラトンが民主政をまるで好まず、ペリクレスをなおさら嫌っていたことを忘れてはなりません。

また、ウンベルト・エーコなどの思想家は、ペリクレスによる戦没者の政治的利用、すなわち民主主義のためではなくポピュリズムのためのプロパガンダだとみなす見方に対し、拒絶反応を示しています。

いずれにせよ、ペリクレスの葬送演説は、彼が「自由の大地、勇敢なる者たちの故郷」(アメリカ国歌のhome of the braveを彷彿とさせる表現です)と呼んだ、あの時代のアテネの瞬間と精神を見事に体現しています。しかし翌年にペリクレスが死去すると、アテネは二度とその栄光を取り戻すことはなかったのです。