ファシズムは、ベニート・ムッソリーニの指導の下、1920年代初頭のイタリアで誕生した政治思想・体制です。ナチズムと同様に権威主義的な支配をもたらし、個人の自由を大きく制限しました。その影響はイタリアにとどまらず、ドイツ、スペイン、ポルトガルなどヨーロッパ各国の全体主義的政権のモデルとなり、さらには1937年にジェトゥリオ・ヴァルガスがブラジルで実施した「エスタド・ノヴォ(新国家体制)」にも影響を与えました。
歴史的背景 ― 第一次世界大戦後の混乱
ファシズムは第一次世界大戦の終結前後に登場しました。当時のイタリアはヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の統治下にありましたが、主に経済面で深刻な問題を抱えていました。
イタリアは戦勝国の一つでしたが、参戦した他国と同様に経済構造に甚大な被害を受け、それが社会問題へと発展しました。とりわけ工業部門の労働者の状況は悪化していました。この時期のイタリアではアナルコ・サンディカリズム(無政府サンディカリズム)が大きな勢力を持ち、またイタリア共産党も組織され、1917年のロシア革命による共産主義運動と強い結びつきを持っていました。
ベニート・ムッソリーニの台頭
当時のイタリアは議会制君主国であり、自由主義派の首相ジョリッティが政権を率いていました。ジョリッティに対抗する最大の野党はイタリア社会党(PSI)でした。ムッソリーニ自身も同党のメンバーでしたが、第一次世界大戦へのイタリア参戦を支持したことで党の方針に反することとなり、除名されました。
1919年、ムッソリーニは第一次世界大戦の復員兵たちとともに、準軍事的性格を持つ新しい組織の立ち上げを開始します。この組織は当初「戦闘ファッショ(Combat Fascio)」と呼ばれ、古代ローマ帝国の権力の象徴であった束棒(リットリオ・ファッショ)にちなんだ名称でした。
彼らの服装は、軍服の上に黒いシャツを重ねたものであったことから、「黒シャツ隊」としても知られるようになりました。
国家ファシスト党の結成とローマ進軍
1920年、ムッソリーニはこの組織を政党へと改編し、国家ファシスト党を創設しました。同党は翌1921年の選挙に出馬し、20議席を獲得しています。
そして1922年10月26日から27日にかけて、ファシストたちは有名な「ローマ進軍」を実行しました。その目的は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に対し、ムッソリーニを首相に任命させるよう圧力をかけることでした。10月30日、国王はこの圧力に屈し、ムッソリーニに新政権の樹立を委任したのです。
全体主義体制への道
1924年の選挙では、ファシスト政権の全体主義的な本質が露呈しました。ムッソリーニは国家治安のためのファシスト義勇軍を創設し、有権者にファシスト党候補への投票を強要したのです。
さらに社会党代議士ジャコモ・マッテオッティの暗殺事件が発生し、ファシスト政権に対する大規模な抗議運動が巻き起こりました。しかしムッソリーニは、この事件をむしろ政権を一層非民主的かつ軍事的に強化する口実として利用しました。
経済統制と「ドゥーチェ」の独裁
1925年以降、ファシスト政権はイタリアの経済復興を推進する一方、労働者組織を統制するコーポラティズム(組合国家主義)や、国家管理型の経済と連動する企業寡占体制を確立していきました。カルタ・デル・ラヴォーロ(労働憲章)は、ファシスト政権がイタリアの労働者を統制するために制定した重要な手段の一つです。
ムッソリーニ政権の中核機関となったのは国家ファシスト評議会です。同評議会は政治・経済に関するあらゆる事項を審議し、国家の各分野における官職の人事権まで握っていました。
ムッソリーニは自らをドゥーチェ(Duce)、すなわち「指導者」と称しました。これは全体主義体制に典型的な個人崇拝の性格を如実に示すものです。
第二次世界大戦とファシズムの崩壊
ファシスト政権はナチス・ドイツと同盟を結び、イタリアを第二次世界大戦へと導きました。しかし戦争に敗北すると、ムッソリーニはイタリア国民自身の手によって処刑され、ファシズム体制は崩壊しました。
ファシズムの歴史は、経済的危機や社会的不安が極端なナショナリズムと独裁政治を生み出しうることを示す教訓として、今日でも多くの人々に学ばれています。