ブラジルの摂政時代とは
摂政時代は、1831年4月7日のドン・ペドロ1世による帝位退位に始まり、1840年に「大人化クーデター(ゴルペ・ダ・マイオリダージ)」によって14歳のドン・ペドロ2世が即位するまで続いた約9年間の過渡期です。当時、後継者である皇太子はわずか5歳であったため帝位に就けず、国家の統治は摂政たちの手に委ねられました。この時期、ブラジルは一時的な地方分権化を経験し、その結果、各地の州で一連の反乱が発生することとなりました。
ドン・ペドロ1世の退位
ドン・ペドロ1世は1831年4月7日、息子のペドロ・デ・アルカンタラに帝位を譲る形で退位しました。この事態の背景には、皇帝の中央集権的かつ権威主義的な政策によって、「ブラジル党」の流れを汲むブラジルのエリート層との関係が次第に悪化していったことがあります。
在位中、ドン・ペドロ1世は1824年憲法を強行制定し、政治権力を自らに集中させました。これにより、皇帝の権限を制限すべきだと主張するブラジル側の勢力との対立が深まりました。さらに、シスプラチナ戦争の敗北と、それがブラジル経済にもたらした打撃も、皇帝の人気失墜に決定的な影響を与えました。
こうした状況の中、ミナスジェライス州では皇帝に冷ややかな対応がなされ、首都リオデジャネイロでは「ボトルの夜」と呼ばれる騒乱が発生しました。これは「ブラジル党」(当時の反皇帝派)と「ポルトガル党」(皇帝擁護派)の間で繰り広げられた抗争です。これらの出来事が積み重なり、皇帝はついに退位へと追い込まれたのです。
当時、後継者のペドロ・デ・アルカンタラはわずか5歳で、1824年憲法の規定により18歳に達するまで即位することが認められていませんでした。そこで国家統治を摂政が担う摂政時代が幕を開けました。その間、ペドロ・デ・アルカンタラはホセ・ボニファシオの後見を受け、将来の即位に備えて教育されました。
摂政時代の区分
ブラジルの摂政時代は、1831年に始まり、1840年にドン・ペドロ2世の親政前倒しが実現して終了しました。この9年間は、大きく以下の四つの時期に区分できます。
- 臨時三人摂政(1831年)
- 恒久三人摂政(1831年〜1835年)
- フェイジョー一人摂政(1835年〜1837年)
- アラウジョ・リマ一人摂政(1837年〜1840年)
摂政時代の三大政治勢力
この時期には三つの政治グループが台頭し、時代の推移とともに、第二帝政期にブラジル政治を二分する二大勢力へと再編されていきました。
- 急進自由派(エグザルタード):連邦制、すなわちブラジル各州により大きな自治権を与えることを主張したグループです。君主制支持者と共和制支持者が混在していました。有力な代表者にはシプリアーノ・バラータが挙げられます。
- 穏健自由派(モデラード):ドン・ペドロ2世の即位を支持する君主制派でしたが、皇帝の権限制限を強く求めました。代表的な人物はディオゴ・アントニオ・フェイジョー神父です。
- 復古派(レストラドール):ドン・ペドロ1世の復位を求めた君主制派です。このグループは1834年のペドロ1世の死去とともに急速に弱体化しました。代表的存在はホセ・ボニファシオです。
摂政時代の重要な政策
三人摂政の時代には、いくつかの重要な改革が実施されました。まず、1832年に制定された刑事手続法典は、治安判事の権限拡大や、重大犯罪の審理における陪審制度の導入などを定めるとともに、ハベアス・コーパス(人身保護令状)——被告人が拘束されない自由な身柄のまま裁判を受ける権利を保障する法的仕組み——を創設しました。
もう一つの重要な施策が、1831年の国民衛兵の創設です。これは、政府の暴走や反乱に備えて市民自身が武装組織を結成できるようにしたもので、管轄区域は市町村単位とされ、21歳から60歳までの選挙権を持つすべての市民で構成されました。
しかし、この時期で最も重要な決定は、1834年の追加法(Ato Adicional)の承認です。この法律は1824年憲法に一連の改正を加え、ブラジル各州により大きな自治権を付与したことから、急進自由派の勝利と評価されています。一部の歴史家は、この追加法こそが立憲君主制下のブラジルにおける短い共和制的実験の始まりだったと指摘しています。
この法律により、摂政期間中は皇帝の調停権が停止され、国務院が廃止されました。中でも最も重要な変更点は、新たな職権を持つ州議会の創設でした。これにより、各州は地方税の創設や公務員の任免など、それまで持ち得なかった権限を獲得したのです。
頻発した州の反乱
各州への権限委譲は、地方の政治対立を激化させ、一連の州反乱の発生を招きました。これらの反乱は、それぞれの州の政治・社会的状況に根ざした独自の動機を持っていました。
摂政時代に勃発した主な州反乱としては、北部のカバナージュ、マラニャンのバライアーダ、バイーアのサビナーダ、黒人奴隷らによるマレー人反乱、そして南部のファロウピーリャ戦争(襤褸反乱)が挙げられます。このほかにも、カバナーダやクイアバ地方の反乱など、ブラジル各地で同様の運動が相次ぎました。
一人摂政の時代と保守回帰
1834年の追加法成立に伴い、三人摂政に代わる一人摂政体制への移行も定められました。選挙の結果、フェイジョー神父が初代摂政に選出されました。しかし、フェイジョー神父は1837年に辞任し、新たな選挙が実施されることになります。辞任の原因としては、政治的圧力や健康上の問題などが指摘されています。
続く選挙では、ペドロ・デ・アラウジョ・リマが第2代にして最後の摂政に選ばれました。彼の摂政期間中には、保守勢力の伸長を特徴とする「回帰(レグレッソ)」と呼ばれる政治的転換が起こり、権力分権化など、それまで進められてきた一部の政策が巻き戻されました。
この時期、ブラジルの政治構図にも重要な変化が生じました。従来の政治グループは再編成され、自由党と保守党という二大政党へと姿を変えたのです。自由党は穏健派と急進派の融合により、保守党は穏健派と復古派の融合により形成されました。
アラウジョ・リマの摂政期間中、州反乱は極めて苛烈な手段で鎮圧されました。特にカバナージュでは約3万人、バライアーダでは約1万2千人が命を落としたと伝えられています。政治の中央集権化への回帰は、1840年に公布された追加法解釈法によって最終的に確定しました。
大人化クーデターと第二帝政の始まり
保守派の台頭に対抗するため、自由派はドン・ペドロ2世の親政を前倒しし、18歳未満でも即位できるようにすべきだという政治的主張を展開しました。この言説は国の経済界・政界のエリート層に受け入れられ、有名な大人化クーデター(ゴルペ・ダ・マイオリダージ)として実行に移されました。こうして1840年、ドン・ペドロ2世の成年が前倒しされ、彼はわずか14歳で戴冠しました。この出来事をもって、ブラジル史は第二帝政の時代へと歩みを進めることになるのです。