古代の歴史

ブラックパンサー党とは?誕生の背景・思想・活動から解散までを解説

ブラックパンサー(Black Panthers)は、アフリカ系アメリカ人コミュニティの防衛を掲げて登場したアメリカの政治組織です。1960年代の公民権運動の流れの中で、当初は警察による黒人への暴力と闘うことを目的としたグループとして始まりました。

ブラックパンサーは、国家の暴力に対する黒人の武装自衛を提唱する革命的なイデオロギーを採用しました。また、アフリカ系アメリカ人コミュニティが自らを統治すべきという自主管理の構想を抱き、最貧層を支援する社会事業の実現を擁護していました。

しかし、ブラックパンサーはアメリカ政府による弾圧に大きく苦しむことになります。FBIは組織を弱体化させるために数多くの工作を行い、その結果、グループは1980年代に消滅しました。ブラックパンサーの闘いを象徴するシンボルの一つが、空高く掲げた拳です。

公民権運動という時代背景

1960年代までのアメリカ合衆国は、激しい人種差別に特徴づけられていました。この時期まで、黒人が特定の場所――一部のレストランや店舗など――に立ち入ることを禁じられるのは珍しいことではありませんでした。トイレは白人用と黒人用に分けられ、飲水機さえも人種によって分離されていたのです。

アメリカにおける偏見は、同国の奴隷制の時代からの「遺産」でした。南北戦争による奴隷制廃止以降も、社会における黒人と白人の分離は明白であり、多くの黒人は投票権を制限され、極度の貧困を強いられ、特に警察からの暴力に苦しんでいました。

こうした状況すべてが、1950年代に始まる公民権運動につながります。きっかけとなったのは、ローザ・パークスがバスの席を白人男性に譲ることを拒否した事件です。これを契機に、黒人による一連の抗議活動が全米に広がり、国内に存在する人種隔離(セグリゲーション)の終結を求める偉大な指導者たちが現れました。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはその代表的存在です。彼はアメリカ南部ジョージア州を拠点とするバプテスト派の牧師で、黒人の闘いは市民的不服従と平和的な抗議であるべきだと主張しました。一方で、黒人による武装自衛を擁護する勢力も存在しました。その一つが、黒人アメリカ人の分離主義を提唱した「ネーション・オブ・イスラム」です。こうした社会的沸騰の時代に、ブラックパンサーは誕生しました。

ブラックパンサーの誕生

ブラックパンサーは1966年、ヒューイ・ニュートンとボビー・シールという二人の黒人大学生によって設立されました。両者はカリフォルニア州オークランドに住んでおり、警察の暴力と闘う手段としてこのグループを立ち上げました。当時は抗議運動の高まりを受けて、人種差別的な動機を持つ多くの白人が暴力で反応し、警察による暴力がますます激化していたからです。

そこで二人は、警察の活動を監視し、アフリカ系アメリカ人への暴力を未然に防ぐための組織を作ることを決意しました。最大の特徴は、ブラックパンサーが武器を携えて警察の活動に同行したことです。彼らはこれを、市民に武装の権利を認めたアメリカ合衆国憲法修正第2条によって正当化しました。

設立初期のブラックパンサーは、人種差別主義者に対して威嚇的な態度で臨むこともありました。しかし次第にグループは発展し、新しい綱領を採用していき、やがて政党へと変貌を遂げていきます。

ブラックパンサーの思想

設立当初から、ブラックパンサーには「十点綱領(Ten Point Program)」と呼ばれる綱領があり、彼らの要求と信念が明文化されていました。当初は警察の暴力との闘いに焦点を当てていましたが、グループの発展とともに新たな思想的影響を受け入れていきました。ブラックパンサーに最も大きな影響を与えたのは、フランツ・ファノンとカール・マルクスでした。

時が経つにつれ、グループは社会活動に積極的に取り組み、公然とマルクス主義の綱領を掲げるようになり、資本主義への批判的な立場を明確にしました。さらにブラックパンサーは、貧困層(特に黒人)が自らを統治する自主管理社会の樹立を提唱しました。

十点綱領は1967年に公開され、以下のような要求を掲げていました。

私たちの望み(WHAT WE WANT)

  1. 私たちは自由を求める。私たちの黒人コミュニティの運命を決定する権力を求める。
  2. 私たちの人々の完全雇用を求める。
  3. 黒人コミュニティに対する白人資本家による収奪の終結を求める。
  4. 人間が住むのにふさわしいまともな住宅を求める。
  5. 私たちの人々のためのまともな教育を求める。それはアメリカ社会の退廃の真の姿を暴く教育であり、私たちの真の歴史と今日の社会における役割が教えられるものでなければならない。
  6. すべての黒人男性が兵役を免除されることを求める。
  7. 黒人に対する警察の残虐行為と殺人の即時終結を求める。
  8. 連邦、州、地区、市の刑務所に収監されているすべての黒人の自由を求める。
  9. 裁判にかけられたすべての黒人が、アメリカ合衆国憲法に定められたとおり、自分の仲間あるいは黒人コミュニティの人々によって裁かれることを求める。
  10. 土地、パン、住宅、教育、衣服、正義、そして平和を求める。

黒人の自己決定権、生存に不可欠な物資へのアクセス、そして黒人に対する暴力の終結――これこそが、ブラックパンサーの最大の要求でした。

ブラックパンサーの活動

1966年から1968年にかけて、ブラックパンサーは地域的な活動グループから全国的な存在へと飛躍しました。1967年には二つの重要な出来事が起こっています。一つ目は、カリフォルニア州が武器携帯の禁止を議論していた際に、党員30名が市庁舎になだれ込んだ事件です。二つ目は、ヒューイ・ニュートンが警官殺害の容疑で逮捕されたことです。

前述のとおり、グループは当初、警察の暴力を防ぐためにオークランドの貧困地区を見回るパトロールとして活動していました。全国的な知名度を得ると、アメリカ各地にブラックパンサーの支部が設立され、そのイデオロギーは全土へと広まっていきました。

影響力を増すにつれ、社会事業を実施できる環境も整っていきました。彼らは貧困層、特に黒人やラティーノに無料のサービスを提供する学校やコミュニティ病院を設立しました。さらに食料配給を行い、子どもたちの学校への送迎も実施しています。これらの学校では、党独自の視点からアメリカ史が教えられていました。

全盛期(1960年代後半)には、ブラックパンサーは最大5000人の党員を擁し、アメリカ各地の都市に30以上の委員会を有していました。アフリカ系アメリカ人の相当部分から支持を受けていたのも事実です。この人気は、社会的暴力と闘い、社会的平等を推進しようとする党の努力の賜物でした。

ブラックパンサーの終焉

ブラックパンサー党は1982年の解散をもって公式に幕を下ろしました。しかしその消滅は、突然訪れたものではなく、アメリカの刑事捜査を担う連邦捜査局(FBI)による長期にわたる消耗戦の結果でした。FBIの標的となったことで、ブラックパンサーは対情報活動プログラム(COINTELPRO)の対象に組み込まれます。

このプログラムは、進歩的な綱領を持つ組織を中心に、反体制的とみなされた運動を解体し弱体化させることを目的としていました。FBIは工作員をパンサーズ内部に潜入させ、組織を弱め、士気を低下させました。さらに、党内に内部分裂を仕組むことにも成功しています。

ブラックパンサーに対する暴力も大幅に激化し、毎年数十名の党員が命を落としました。多くの者が逮捕され、党が法廷で直面した訴訟の多さは、深刻な財政難にもつながりました。

最終的に、路線対立と指導部の問題により、党は1970年代に決定的に弱体化し、1982年に解散へと至ったのです。

注釈

[1] ブラックパンサー党「十点綱領」(英語版)
[2] CARPINI, Michael X. Delli. "Black Panther Party: 1966-1982"(英語版)

画像クレジット

[1] Madison Muskopf / Shutterstock
[2] catwalker / Shutterstock