古代の歴史

ブレンノス――「負けた者に災いあれ」で名を残したケルトの指導者

ブレンノスとは

ブレンノス(Brennus)は、古代ケルト(ガリア)人の指導者として伝えられる名前であり、史実と伝説が入り混じった形で後世に語り継がれてきた。この名を持つ指導者は、ローマを襲った紀元前4世紀末の遠征軍と、マケドニアおよびギリシャへ進んだ紀元前3世紀初頭の大遠征軍の双方に関連づけられており、両者が同一人物なのか別人物なのかは古くから議論の対象となっている。

ローマ略奪と「負けた者に災いあれ」

最初のブレンノスは、紀元前390年頃(一説には紀元前386年)にケルト軍を率いてローマを襲撃し、市街を占領した指導者として知られる。リウィウスをはじめとする古代の著述家たちが伝える有名な逸話によれば、撤退と引き換えにローマ側から千ポンドの黄金を身代金として受け取る際、ブレンノスはローマ人が用いた分銅(はかりの重り)が不正に作られていると疑った。そこで彼は自らの剣を天秤に投げ加え、「負けた者に災いあれ(vae victis)」と宣言したという。この言葉は、敗者の無力さを象徴する名言として、後世のヨーロッパで広く引用されることになった。

ギリシャ遠征とデルフォイ攻撃

もう一人の(あるいは同一視される)ブレンノスは、紀元前280年に始まるケルト人大遠征において、アキコリオスとともに中央部隊の総司令官を務めた。この遠征はマケドニアとギリシャを目指すものであり、ブレンノス率いる部隊はまずダルダニアとパエオニアに侵入し、紀元前279年にはギリシャ本土へと進撃した。

その途上、内部の対立により約二万人がレオンノリオスとルトゥアリオスの指揮下で本隊から分離し、別路線を取ることとなった。残されたブレンノスの軍団(ポンペイウス・トログスによれば六万五千人)は、アポロン神の聖域として莫大な宝物を秘めていると信じられていたデルフォイへと矛先を向けた。

アテナイ人やフォーキス人の抵抗を受けながらも、ケルト軍はテルモピュライとオイタ山の峠道を突破して聖域に迫ったが、結局デルフォイの攻略には失敗した。その敗因については諸説あるものの、厳しい冬の寒さと疫病の流行こそが実際の要因だった可能性が高いと考えられている。

最期とその後

自らも負傷したブレンノスは、何とか軍を撤退させ、南マケドニアのどこかでアキコリオスの部隊との合流に成功した。しかし紀元前278年の初め頃、オルベロス山の南にあるヘラクレアにおいて自害し、その生涯を閉じた。ケルト軍本体はその後もトラキアへ向けて退却を続けたという。

なお、このブレンノスはトーリストボギー族(Tolistobogii)の指導者だったとも言われる。トーリストボギー族は、これらの出来事に続いて小アジア(アナトリア)に定住したガラティア人諸部族の一つである。ただしストラボンは、より古い時代の著述家たちの見解として、ブレンノスはプラウサ人だったとする説を伝えており、その出自については今なお定説を見ていない。