古代の歴史

レパントの海戦――1571年、キリスト教連合艦隊がオスマン帝国を破った地中海の決戦

16世紀の地中海――二大勢力の対立

16世紀の地中海世界は、二つの巨大な勢力によって支配されていました。一方にはスペインがあり、バレアレス諸島、サルデーニャ島、シチリア島、ナポリ王国、ミラノ公国といった島嶼部やイタリア領を手中に収めていました。他方には、急速に拡大を続けるオスマン帝国が存在していました。

16世紀初頭以来、オスマン帝国は着実に版図を広げてきました。レパントの海戦前夜の時点で、その支配域はオーストリア国境からペルシア湾岸にまで及び、黒海沿岸からアルジェリアやモロッコの境界線に至るまで、地中海を取り囲むかたちになっていました。

この政治的な分裂に当然のように加わっていたのが、キリスト教徒とイスラム教徒の宗教的対立です。両者の対立は敵意を一層深刻化させ、「聖戦」の理念をたびたび蘇らせることになりました。

しかし同時に、経済活動――すなわち貿易――は、地中海という海を挟んだこの二極をつなぐ絆ともなっていました。ヴェネツィアは中東へ通じる重要な中継地であるキプロス島を保有しており、まさにこの島のオスマン帝国による征服こそが、キリスト教諸国に結束を迫る直接の引き金となったのです。

「異教徒」に対するキリスト教最大の勝利として記憶された戦い

長きにわたり、レパントの名は地中海世界において、キリスト教が「異教徒」に勝ち取った最も輝かしい勝利として語り継がれてきました。この戦いに参加した兵士たちは、生涯の誇りとすることができました。『ドン・キホーテ』の作者として知られる文豪セルバンテス自身、この戦いで受けた傷を自らの最も誇るべき名誉だと述べています。

16世紀初頭以来、トルコ(オスマン)のガレー船は絶えず西地中海に出没していました。彼らはシチリアやスペインの沿岸に上陸しては、海岸部の住民を襲撃し、多くの人々を村から拉致して、オスマン帝国スルタンに仕える奴隷として連れ去りました。海上でトルコのガレー船が近づいてくるのを目にしたとき、船乗りや商人、旅人たちが抱くのは絶望以外の何ものでもありませんでした。捕虜となり、人生を断ち切られることが確実だったからです。地中海は、キリスト教徒にとって危険な海と化していたのです。

対トルコ包囲網――神聖同盟の結成

こうした不安は国家をも脅かしていました。海洋貿易に生計を立てていたヴェネツィア共和国は、トルコの直接的な脅威にさらされていました。1570年3月、オスマン軍はヴェネツィア領キプロスのニコシアを占領しました。状況はかつてないほど危機的でした。さらに、トルコとアルジェの王ウルージ・アリー(エウッジ・アリー)との同盟は、ジブラルタルからナポリに至るまで、バレアレス諸島、サルデーニャ島、シチリア島といった島々の連なりを含むスペイン領全体にとって、重大な脅威となっていました。

ニコシア陥落は、キリスト教諸国に行動を促しました。教皇ピウス5世は十字軍の理想を復活させ、ヴェネツィアとスペインの間を仲介して「神聖同盟(リーガ・サンタ)」の結成を実現させます。1571年初頭、ついに合意が成立しました。ローマ教皇庁、ヴェネツィア、スペインの三勢力が、オスマン帝国の海軍力に対抗するために手を結んだのです。

1571年の夏、メッシーナには連合国の艦船が次々と集結しました。その総数は約200隻の艦船、およそ3万人の将兵に達しました。

1571年10月7日――決戦の日

連合艦隊の指揮を執ったのは、カルロス5世の庶子であり、フェリペ2世の異母弟にあたるドン・フアン・デ・アウストリアでした。艦隊は9月16日にメッシーナを出港してケルキラ島(コルフ)へ向かい、そこで偵察隊がトルコ艦隊の所在をつきとめました。トルコ艦隊は、コリント湾の入り口にあたるレパント(ナフパクトス)湾内に停泊しており、その規模は230隻に達していました。

キリスト教艦隊の接近を察知したトルコ側も、これに打って出ることを決断します。キリスト教側もまた同じ決断を下しました。10月7日の日の出とともに、両艦隊はついに激突したのです。

ドン・フアンの最初の成功は、トルコ艦隊を湾内に封じ込めることにあります。敵に逃げ場はなくなりました。戦闘は海戦でありながら、執拗な接舷攻撃の応酬によってしばしば陸戦さながらの様相を呈しました。スペイン歩兵の強靭さと勇猛さが遺憾なく発揮されます。強力な武装を施したヴェネツィアのガレアス船(大型砲艦)はトルコ艦はトルコ艦隊の陣形を分断し、ジャン・アンドレア・ドーリア率いる軽快なガレー船群は、その速力と精緻な攻撃によってトルコ軍の防御を崩していきました。

大砲が轟き、砲弾が船体に穴を開け、火の手が広がります。パニックに陥ったのはトルコ軍でした。湾の中央では、巨大なスペイン船がオスマン艦船に容赦なく押し込み、反撃の余地を与えませんでした。辛うじて脱出に成功したのは、老獪なアルジェの王ウルージ・アリーと、その指揮下にあるわずか30隻のガレー船だけでした。

丸一日に及ぶ戦闘、怒涛のような怒りと炎の嵐。夕暮れ時、勝利はキリスト教連合軍のものでしたが、海面は戦死者の血で真っ赤に染まっていたといいます。

翻弄された敵、莫大な戦利品

1571年10月7日、ギリシャのパトラス湾近郊、レパント沖において大規模な海戦が行われました。これはオスマン帝国の海軍力と、ローマ教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合艦隊との正面衝突でした。連合軍にはジェノヴァやその他のイタリア諸国、ニースから3隻のガレー船を派遣したサヴォイア家の諸国、そしてマルタ騎士団も小規模ながら加わっていました。この連合体は「神聖同盟」と呼ばれます。

ヨーロッパ側艦隊を実質的に指揮したのは、カルロス5世の庶子ドン・フアン・デ・アウストリアです。一方のオスマン軍は、総司令アリー・パシャが指揮を執り、海賊出身のスィロッコ(ウルク・アリー・レイス)や左翼を率いるウルージ・アリーがこれを補佐しました。

軍事史上の転換点となった戦術

この海戦は、軍事史の文献において海戦戦略の転換点として記録されています。ガレー船部隊が、より機動性の高い砲装艦隊と(大規模に)対峙したのは、これが初めてのことだったからです。トルコ艦隊をレパント湾に封じ込めるという戦略、スペイン歩兵による接舷白兵戦という戦術、さらにトルコ艦隊内部での急速な離反――これらの技術的・戦術的要素が組み合わさったことが、この会戦の名声を高める大きな要因となりました。

戦闘の過程では、オスマン軍総司令アリー・パシャの旗艦が、ドン・フアン・デ・アウストリアの旗艦やニース艦隊提督アンドレア・プロヴァーナ・ディ・レイニのガレー船などの乗員たちによって制圧され、トルコの提督は斬首されました。その首がスペイン主力艦のマスト先端に掲示されると、トルコ軍の士気は決定的に崩壊しました。戦闘は午後4時頃に終息しています。

戦果の総括――圧倒的な勝利

この海戦はオスマン帝国にとって完璧な敗北でした。保有艦300隻のうち260隻を失ったのです。戦力差のあまりの大きさゆえ、この出来事は前例のないものとなりました。キリスト教側の戦死者は約7,500人。一方のトルコ側は死者・負傷者合わせて約30,000人、捕虜8,000人に上り、さらに鎖につながれていた15,000人のキリスト教徒の漕ぎ手(ガレー奴隷)が解放されました。鹵獲したのは、艦船117隻、大砲450門、軍旗39本です。

レパントの海戦は、紀元前31年のアクティウムの海戦から1798年のナポレオン戦期のアブキール湾(ナイル)の海戦に至るまでの間に行われた、世界史上最大級の海戦でした。

スペイン主導のキリスト教連合艦隊の勝利は、とりわけ西地中海におけるスペインの覇権を確固たるものにしました。オスマン帝国は艦隊を急速に再建し、その後まもなくキプロスとチュニス周辺の要塞を奪取しましたが、それ以上西地中海へ踏み込むことはありませんでした。とはいえ、レパントの海戦の主舞台であった地中海そのものの重要性は、数十年前に始まっていた大洋(大西洋)艦隊の台頭とともに、以後の年月の中で次第に色褪せていくことになります。

それ以前のより限定的な海戦がすでに変化を予告していたこと、キリスト教艦隊にも依然として多数のガレー船が含まれていたこと(ただしトルコ艦隊にはガレオン船は存在しなかった)、そして大砲の使用が伝説ほど決定的ではなかったことを考慮する必要はあるものの、レパントの海戦は一般に、ガレー船の時代の終焉と、大砲を備えたガレオン船の時代の幕開けを告げる戦いと見なされています。

逸話にみるレパント

この戦いの参加者として最もよく知られているのは、スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスです。彼はこの戦いで負傷し、左手の自由を失いました。それでも彼は以後、「右手の栄光のために!」と語り続けたといいます。

また特筆すべきことに、トルコ艦隊にはイェニチェリ(ヤニサリ)と呼ばれる精鋭部隊が編成されていました。彼らは幼少期にキリスト教家庭から連れ去られ、イスラム教に改宗させられ、トルコ・イスラム帝国のエリート兵士として育てられた人々でした。

損害を改めて整理すると、トルコ側は死傷者約30,000人、捕虜3,000人、解放されたキリスト教徒の漕ぎ手15,000人。キリスト教側は戦死者約8,000人、負傷者21,000人、沈没したガレー船十数隻。勝利の代償としては決して軽くありませんでした。しかし戦利品は、亡くなった者に命を戻すことはできないまでも、物質的損失を補ってあまりあるものでした。艦船117隻、大砲450門、軍旗39本がトルコ軍から奪われたのです。だが何よりも美しい戦果は、勝利そのものでした。

「過去にも未来にも類を見ない会戦」――レパントが遺したもの

セルバンテスの言葉を借りれば、レパントは「過去の世紀が目にし、未来の世紀が目にすることを望む、最も記憶すべき会戦」となりました。勝利は一連の祝祭とともにキリスト教世界の隅々で祝われ、その報せは瞬く間に広まり、スペイン王フェリペ2世の威信を大きく高めました。ドン・フアン・デ・アウストリアの伝説もここに誕生します。歓喜の渦中、さらなる勝利を夢想する者さえ現れました。

しかしながら、オスマン帝国は致命傷を負ったわけではありませんでした。帝国は比較的速やかに立ち直り、まもなくレパント以前と変わらぬ威容を誇る艦隊を再び洋上に繰り出せるようになったのです。とはいえ、それは外見上の話でした。レパントは確かに何かを打ち砕いたのです。それは「無敵の帝国」というイメージでした。地中海には平和が可能になり、事実上の休戦状態が定着していきます。

海軍的・軍事的な勝利であったレパントは、16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパ人の記憶に深く刻まれ続けました。なぜならそれは何よりもまず、精神的・政治的な勝利だったからです。当時スペインの支配下にあったキリスト教世界に、これほど自信を回復させた軍事的行動は、かつて存在しませんでした。ここにこそ、レパントの栄光の源泉があるのです。

フェリペ2世の治世――栄光と挫折の半世紀

ドン・フアン・デ・アウストリアがフェリペ2世(在位1556~1598年)の命を受けて戦ったレパントは、この王の治世の一断面にすぎません。フェリペ2世の内外政策は、一つの夢によって部分的に説明できます。それは、カトリック・キリスト教世界の政治的支柱となること、すなわち「異教徒」たるムスリムと同時に、「異端者」たるプロテスタントとも戦い抜くという夢でした。

ネーデルラント(オランダ)の反乱

この火種は1566年、政治的・宗教的な理由から発火しました。スペイン王の排他的な信仰姿勢はいかなる妥協も許さず、反乱は1572年に拡大し、1579年にはユトレヒト同盟による北部諸州(連邦共和国)の分離独立が実現します。有能な将軍たちを擁したスペイン軍であったにもかかわらず、カルロス5世から受け継いだ帝国の北欧部分の解体と、プロテスタント勢力の台頭を防ぐことはできませんでした。

フランスへの介入

フランスはユグノー戦争(宗教戦争)の泥沼に沈んでいました。王権は弱体化し、プロテスタント側には王位候補が存在していました。ナバラ王アンリ、後のアンリ4世です。敬虔なカトリック信徒であったフェリペ2世は当然のごとくこの紛争に介入し、カトリック同盟(リーグ)を資金援助したうえで、自軍をフランスへ送り込みます。しかしここでも彼は失敗しました。1589年、アンリ4世の即位を阻止できなかったのです。もっとも、アンリ4世は後にカトリックに改宗したのですが。

イングランドとの戦い――無敵艦隊の悲劇

フェリペ2世对外政策の最終章は、政治的側面(制海権をめぐる争い)と宗教的側面(英国国教会=アングリカニズムとの戦い)が絡み合うものでした。1588年、かつてメアリー・テューダーの夫であったこの王は、「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれる巨大艦隊をイングランド侵攻のために派出します。ところが暴風雨は、イングランド水兵たちの卓越した防御戦術と同じくらい、この栄光の遠征を弔いの遠征へと変えてしまいました。

晩年、エル・エスコリアルの宮殿修道院から統治を行ったフェリペ2世は、父カルロス5世の最期の年々を特徴づけたのと同じ敗北感覚にとらわれていくことになったのです。