古代の歴史

ランツクネヒト――中世ヨーロッパを席巻したドイツ傭兵歩兵の歴史と実像

ランツクネヒト――中世ヨーロッパを席巻したドイツ傭兵歩兵の歴史と実像

ランツクネヒトの語源

「ランツクネヒト(Landsknecht)」という言葉は、1480年頃から文献に確認できるドイツ語に由来します。「クネヒト(Knecht)」は「下男」「使用人」を意味し、雇い主に対する奉仕の関係を表しています。一方の「ラント(Land)」は「国」、あるいはこの文脈では「戦場」「平野」を指し、山岳地帯出身のスイスの槍兵とは対照的に、平野部から来た傭兵であることを示していました。1500年頃からは、槍を意味する「ランツェ(Lanze)」の影響を受けた「Lanzknecht」という綴りも見られるようになります。なお、「Landsknecht」という語は現代ドイツ語でも「傭兵(Söldner)」の意味で使われ続けています。

スイス傭兵に倣った誕生と台頭

ランツクネヒトは、15世紀から17世紀にかけて活動した傭兵で、当時の意味での「ドイツ人」であることが多く、その名をヨーロッパ中に轟かせました。全長6メートルに達するパイク(長槍)で武装した歩兵の前には、いかに精鋭な騎兵であっても無力であることを、スイス軍が幾度となく実証してみせたのです。これに触発された多くの君主が、スイスの「ライスレウファー(Reislaüfer)」と呼ばれる傭兵をモデルにした部隊の創設を決めました。

バイエルンでは、皇帝に仕える有力な傭兵隊長の一人としてゲオルク・フォン・フルンツベルクの名が特に知られています。また、イタリア・フィレンツェにある「ランツィのロッジア(Loggia dei Lanzi)」は、近くに駐屯していたドイツ人傭兵にちなんで名付けられたものです。こうしてランツクネヒトの栄光の時代が幕を開けました。ハプスブルク家のマクシミリアン1世(1459-1519)は「ランツクネヒトの父」と呼ばれ、その治世は彼らの絶頂期であったと考えられています。

武器と部隊編成

スイス傭兵と同じほど引く手あまただったランツクネヒトは、ヨーロッパ中の君主、とりわけフランス王に仕え、その略奪と乱暴狼藉によって歴史に強烈な足跡を残しました。長いパイクが主武器でしたが、より短いハルバード(約2メートル)や、片手用・両手用のさまざまな剣も部隊の装備を飾りました。

エリートとされたのは「ドッペルゼルドナー(Doppelsöldner)」と呼ばれる倍額俸給兵です。彼らは、馬一頭を容易に仕留めることができた長剣フランベルジュや、アルケブス(火縄銃)などを操りました。マクシミリアン1世時代のランツクネヒト部隊の理想的な編成は、パイク兵300名とドッペルゼルドナー100名(うちアルケブス銃兵50名、ハルバード兵50名)とされましたが、時代が下るにつれてこの比率はアルケブス銃兵の割合が増す方向へと変化していきました。

軍隊から生まれたファッション革命

全盛期のランツクネヒトは、戦術や武器、軍装(鎧、上着、兜、馬具など)にとどまらず、当時の服飾ファッションにまで影響を及ぼしました。戦場で身動きの取れる服装が不可欠だという発想から、彼らは次第に服装の自由度を高めていき、その影響は「平時」の装いにも及んでヨーロッパの流行を左右するようになったのです。

もっとも、貴族や聖職者たちは、自らの社会的地位を侵害するかのような彼らの華美な装いに反発を覚えました。とりわけ聖職者たちは、男性器が大きく見えるように作られた当て布「コッドピース」をあしらった彼らの身なりを快く思いませんでした。しかしマクシミリアン1世の働きかけにより、1503年のアウクスブルク帝国議会で、ランツクネヒトは自由に服装を楽しむ権利を認められたのです。

略奪と暴力にまみれた実像

その栄光の裏で、ランツクネヒトの多くは略奪に貪欲な兵士として振る舞いました。1527年のローマ略奪に象徴されるように、彼らの通過は虐殺、略奪、窃盗、強姦、放火、売春といった惨禍をもたらすことが少なくありませんでした。また、華美な服装や贅沢を満喫できたのは将校や一部の名高い傭兵だけであり、大半の兵士は栄光どころか貧困の縁に近い存在でした。

当然ながら、彼らは民衆から白い目で見られていました。興味深いことに、彼らの出身階層である日雇い労働者、小規模な職人や職人見習い、農民、さらには前科者といった人々の間でさえ、ランツクネヒトに対するイメージは決して良いものではありませんでした。彼らは俸給を得ることでその境遇から抜け出すことを望んでいたのです。

過酷な運命――短い寿命と惨めな晩年

当時の衛生環境の下では、わずかな負傷も感染症につながり、壊疽は死や切断を意味しました。性病をはじめとする病気が日常茶飯事であり、ランツクネヒトの寿命は極めて短いものでした。さらに、生き残った者の運命も決して羨ましいものではありませんでした。盗みや物乞いで生きる身体障害者や社会のはみ出し者たちの群れは、少なくとも17世紀半ばまでヨーロッパの街角に見られた風景だったのです。