古代の歴史

ヨアヒム・ムラット

ヨアヒム・ムラット(Joachim Murat、1767年3月25日 - 1815年10月13日)は、ナポレオン戦期を代表するフランスの軍人、帝政元帥、そしてナポリ国王(在位1808年-1815年)である。卓越した騎兵指揮官としてナポレオン・ボナパルトのもとで数々の戦功を挙げ、義弟として皇帝一族の一員となったが、野心と自立への渇望がついにはナポレオンとの決別を招き、ナポリ王位を失って銃殺刑に処せられた、波乱に満ちた生涯を送った。

生い立ちと初期の経歴

1767年、ロット県カオール近郊のラバスティッド=フォルトゥニエール(現ラバスティッド=ミュラ)で、宿屋を営むピエール・ミュラ・ジョルディとジャンヌ・ルビエールの11人目の子として生まれた。当初は聖職者を目指し、カオールの神学校、次いでトゥールーズのラザリスト会で学んだが、享楽的な生活で借金を重ね、父の怒りを恐れて1787年2月、アルデンヌ猟兵連隊(後のシャンパーニュ連隊、第12猟兵連隊)に志願入隊した。

教養があったため頭角を現すが、1789年に不服従を理由に除隊。故郷に戻った後、革命の波に乗じて地元のクラブ活動に参加し、1790年7月14日の連合祭にはロット県代表としてパリに派遣された。

フランス革命戦争での台頭

1791年1月に復隊し、翌年国王憲法護衛隊に任命されるが、マルテ派の熱烈な支持者だった彼は「王党派の巣窟」と見なして数日で辞任。第12猟兵連隊に戻り、1793年夏には第21猟兵隊長に昇進。テルミドールのクーデター後もボナパルトと同様にヴァンデミエール13日の王党派蜂起鎮圧で功を立て、イタリア方面軍司令官となったボナパルトの副官に抜擢された。

1796年のイタリア戦役では、ロヴェレードの戦い(9月4日)で歩兵を背乗せさせた騎兵隊でアディジェ川を強襲渡河し敵を混乱させ、バッサノの戦い(9月22日)では騎兵隊を率いてオーストリア・サルデーニャ歩兵の方陣を突破して大勝に貢献。デーゴとモンドヴィでも活躍し将軍に昇進、マントヴァ包囲戦で負傷した。同年3月13日のタリアメント川強襲渡河はアルチュール大公の計画を狂わせ、オーストリアを講和に追い込む一因となった。

エジプト遠征ではアレクサンドリア占領とピラミッドの戦いで武勲を挙げ、サン=ジャン・ダクル包囲戦では自ら志願して突撃隊を率いた。アブキールの戦い(1799年7月25日)では喉を銃弾で貫かれながらも敵総司令官を捕虜にし、戦場で師団将軍に昇進。ボナパルトが帰国する際、同行を許されたわずか7人のうちの1人となった。

統領政府時代:ブリュメール18日と結婚

1799年11月のブリュメール18日のクーデターでは、グレナディア60名を率いて五百人院議場に乱入し、議会解散を宣言してナポレオンの実権掌握を決定づけた。翌1800年1月18日、ナポレオンの妹カロリーヌ・ボナパルトと結婚(間に4子)、チュイルリー宮殿に居を構え、統領護衛隊司令官となった。

マレンゴの戦い(1800年6月14日)では予備軍騎兵を指揮し、「弾丸で服が穴だらけになった」とベルティエに記される活躍を見せた。その後、パリ軍政知事(第1軍管区司令官)として6万の兵を預かり、アンジエン公爵裁判では軍事法廷の構成を拒否するなど、独自の正義感を見せた。

帝政時代:元帥・ベルク大公・大提督

1804年5月18日の帝政宣言翌19日、帝国元帥に列せられ、1805年2月には大提督、レジオンドヌール勲章大鷲章(グラン・トフィシエ)を授与、エリゼ宮に移り「皇族」の称号を得た。同年秋のウルム戦役では騎兵先鋒としてオーストリア軍を追撃、ヴェルネック将軍を降伏させ4,000名を捕虜にし、アウステルリッツの戦い(12月2日)では左翼を指揮して大勝利に貢献。プレスブルク講和でベルク=クレーフェ大公領を与えられ、デュッセルドルフを首都とした。

1806年のプロイセン戦役ではイエナの戦いで敵主力を壊滅させ、エアフルト要塞を降伏させ、リューベックではブリュッヘルの部隊を捕捉。ポーランドへ進軍しワルシャワに入城(11月28日)、自らをポーランド王と見なすほどの歓迎を受けた。1807年アイラウの戦いでは、フランス軍中央がロシア軍に二分されんとした危機に、80個中隊1万-1万2千騎を率いて歴史最大級の騎兵突撃を敢行、戦局を挽回した。ティルジット講和で領地拡大を得るが、統治は財務大臣ジャン・アガール(モスブール伯)に任せきりだった。

ナポリ王としての統治(1808年-1815年)

即位と改革

1808年初め、スペイン遠征軍司令官としてマドリードに入ったムラットは、5月2日の民衆蜂起(ドス・デ・マヨ)を流血鎮圧。ナポレオンが弟ジョゼフをスペイン王に据えると、ナポリ王位を提示されて即位(8月1日)、ジョアシャン1世を名乗った。ベルク大公領とフランスの財産・元帥俸給を放棄したが、ナポリ市民の熱烈な歓迎(1801年の布告で民衆の記憶に残っていた)に心を動かされた。

ジョゼフが用意していた憲法(五院制議会)を凍結し、イタリア人を登用して人気を集めた。封建制の完全撤廃、ナポレオン法典の導入、海軍・陸軍の再編、カラブリアの山賊掃討など改革を進めたが、財政赤字は解消されなかった。

領土回復とシチリア遠征の失敗

シチリアに逃れたブルボン朝(フェルディナンド4世・マリア・カロリーナ)の牙城カプリ島を、1808年10月にラマルク将軍が攻略。政治亡命者を赦免して統合をアピールした。1809年の対オーストリア戦ではナポリ防衛に徹し、イギリス艦隊の攻撃を退けた。しかし同年9月のシチリア渡海作戦では、グルニエ将軍がナポレオンの命令待ちを理由に増援を拒否、上陸部隊がイギリス軍に撃退されて失敗に終わった。

ナポレオンとの確執

義兄弟ながら両者の関係は冷ややかだった。ナポレオンは出自の低いムラットを軽蔑し、カロリーヌとの結婚も「愛情より理性(モロー将軍との縁組)」を犠牲にしたものと見ていた。戴冠勅書が「カロリーヌ王妃のため」と明記されていたり、書簡の文面が事務的で嫌味に満ちたり、解任をチラつかせたりと屈辱は続いた。大陸封鎖令でナポリ経済が疲弊する中、ムラットはカルボナリ(秘密結社)と接触してイタリア統一を画策するようになるが、カロリーヌが常に抑制役を務めた。

ロシア戦役からライプツィヒ、そして「裏切り」

1812年ロシア戦役では再び騎兵先鋒を務めたが、バルクライ・ド・トリーの焦土戦術に手を焼き、ボロジノの戦い(モスコワ、9月7日)で最後の大活躍を見せた。撤退戦で騎兵が壊滅する中、ナポレオンがパリへ帰る際(12月5日)残軍指揮を託されたが、ヴィリニュスで維持不能と判断しポーランドへ撤退、1813年1月ポーゼンでウジェーヌ・ド・ボアルネに指揮権を譲ってナポリへ帰還した。

オーストリア・イギリスと接近し軍事同盟締結寸前まで行くが決断を躊躇。ナポレオンがバウツェンの戦い(5月)で勝利すると、8月ドレスデンでオーストリア左翼を撃破するなど再びナポレオン麾下で戦う。しかしライプツィヒの戦い(10月16-19日)敗北後、再び軍を離れミラノへ。そこでカルボナリに襲われ、11月8日オーストリア大使に連合国側への参加を表明、1814年1月8日ナポリ・オーストリア同盟条約を締結(いわゆる「ムラットの裏切り」)。

イタリア北部を凱旋しながらウジェーヌ軍と衝突、一時は翻意してナポレオン側に戻ろうとしたが、フォンテーヌブロー退位で状況一変。オーストリア・イギリスに追われ5月ナポリへ戻った。ウィーン会議でナポリ王位は承認されたものの、エルバ島のナポレオンと密かに連絡を取り合っていた。

百日天下と最期

1815年3月ナポレオン上陸を知ると、ナポレオンがパリ入城前にオーストリアへ宣戦布告(3月30日リミニ宣言でイタリア蜂起を呼びかけ)。初期の歓迎はあったが、5月2日トレンティーノの戦いでオーストリア軍に大敗、夢は潰えた。19日ナポリ脱出、25日カンヌ着。

プロヴァンスを彷徨いナポレオンの招集を待ったが拒絶(ナポレオンはセントヘレナで後悔)。ワーテルロー敗戦を聞きコルシカへ逃れ、約1,000人の支持者を集めてナポリ奪回を企図。9月28日アジャクシオ出発、10月8日カラブリアのピッツォ港に上陸するが、かつて山賊掃討で厳しく弾圧した地元民は敵対的だった。城に幽閉され、10月13日フェルディナンド王の布告により「宗教的慰めのため30分のみ猶予」の上、軍事法廷で死刑判決を受け即日銃殺された。享年48歳。

人物評価と逸話

ナポレオンの元帥の中でも軍事的天才とは言えないが、強力なカリスマで兵を率いる卓越した指揮官であり、剣豪として敵陣深く切り込む突撃戦術で数々の奇跡的勝利を収めた(アブキールでのトルコ軍壊滅、アイラウでの逆転突撃、ボロジノでの決定的突撃など)。コサック騎兵からも賞賛された先鋒の名手で、ウルム後5日間で1万5千の捕虜、イエナ・アウエルシュタット後のプロイセン軍壊滅など追撃戦でも無双だった。

しかし熱血漢で暴走しがち(1807年ハイルスベルクの戦いで8万のロシア陣地に単独で9千騎を突っ込ませるなど)、ロシア戦役初期には追撃のしすぎで騎兵を消耗させた。総司令官としては未熟だった。

派手な軍服・帽子・装飾品を好み、サーカスの名騎手フランコニに因んで「フランコニ王」とあだ名された。この虚栄心は、他の将軍と一線を画したいという自己顕示欲の表れであり、帝政期の肖像画でひと目で彼と分かる所以でもある。

家族と子孫

カロリーヌ・ボナパルトとの間に4子をもうけた:

  • アシール(1801-1847) - 第2代ミュラ公、キャサリン・ダドリー(ワシントンの大甥姪)と結婚、子なし
  • レティツィア(1802-1859) - ギド・タッデオ・ペポリ侯爵と結婚
  • リュシアン(1803-1878) - 第3代ミュラ公、キャロライン・フレーザーと結婚(5子)、現当主ジョアシャン・ミュラ(第8代公、1944年生)はこの系統
  • ルイーズ(1805-1889) - ジュリオ・ラスポニ伯爵と結婚

主な戦歴・栄典

主な戦役・戦闘: 第一次イタリア戦役、エジプト戦役、マレンゴの戦い(1800)、アウステルリッツの戦い(1805)、イエナの戦い(1806)、アイラウの戦い(1807)、ボロジノの戦い(1812)、ライプツィヒの戦い(1813)、トレンティーノの戦い(1815)

栄典・称号: 帝国元帥、大提督、レジオンドヌール勲章大鷲章、皇族、ベルク=クレーフェ大公、ナポリ国王

出生: 1767年3月25日、ラバスティッド=フォルトゥニエール(フランス)
死去: 1815年10月13日、ピッツォ(イタリア)
兵科: 騎兵
最終階級: 帝国元帥
現役期間: 1787年-1815年