古代の歴史

なぜバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたのか?第一次世界大戦前夜の激動の歴史

はじめに:バルカン半島とは

第一次世界大戦へと突き進んでいく直前のヨーロッパ情勢を理解するうえで、欠かせないのがバルカン半島の状況です。

バルカン半島はヨーロッパ南東部に位置し、ギリシャ、ブルガリア、セルビア、モンテネグロなどを含む地域です。

この地域はもともとオスマン帝国の支配下にありましたが、19世紀初頭以降、帝国の衰退とともに一部の地域が独立・自治を獲得していきます。そして、各国・各地域が独立や自治をめぐって抱えた不満が、やがて大規模な戦争へと発展していくのです。

オスマン帝国とはどんな国か

オスマン帝国は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)とルーム・セルジューク朝の国境地域で形成されたイスラム国家で、1299年にアナトリア半島のベイリク(侯国)の一つとして誕生しました。

※ベイリク諸国は「侯国」とも呼ばれ、ルーム・セルジューク朝が衰退した時期に各地で成立しました。

その後、オスマン帝国は勢力を拡大し続け、領土をヨーロッパや北アフリカへと広げていきます。

宮廷の腐敗と衰退の始まり

しかし、繁栄は永遠ではありません。帝国最盛期を築いたスレイマン大帝(16世紀)の時代から、宮廷には綻びが見え始めます。政治を支えるはずの大宰相の頻繁な交代や、君主の母后たちによる政争などにより、政治は次第に混乱していきました。

大航海時代と財政悪化

内政の混乱に加え、15世紀半ばからの大航海時代も帝国を苦しめます。新大陸とその鉱山が発見されると銀が大量に流入し、物価が急騰しました。

さらに、広大な領土を統治するための軍事負担は重く、オスマン帝国の財政は慢性的な赤字に陥ります。極端なインフレーションや財政赤字を何とかしようと質の低い銀貨を鋳造し直した結果、通貨への信用が揺らぎ、経済はさらに悪化。この混乱は17世紀まで続きました。

第二次ウィーン包囲と大トルコ戦争

そんな中でも帝国は再建を果たし、スレイマン時代を超える領土拡大を達成します。しかし、長年隣接して対立してきたハプスブルク家(オーストリア)との衝突の中で、拡張路線を進めた二人の大宰相(ともに皇帝の娘婿)によって第二次ウィーン包囲(1683年)が強行されました。

この包囲は失敗し、戦いは大トルコ戦争(1683〜1699年)へと発展します。この戦争でオスマン帝国は、神聖ローマ帝国・ポーランド・リトアニア共和国・ヴェネツィア共和国、後にロシアも加わる神聖同盟に敗北しました。

  • オーストリアは復興の鍵をつかむ
  • オスマン帝国は衰退へと向かう

これ以降、両国の明暗はますますはっきりと分かれていくことになります。

※神聖ローマ帝国は、有力な諸侯が統治する領邦国家や帝国都市などが集まった連合体のような存在で、皇帝は諸侯の中から選挙で選ばれました。やがてハプスブルク家がほぼ世襲的に皇帝位を独占するようになり、オーストリアはハプスブルク家の中核領となりました。

ロシアとの衝突

大トルコ戦争には、後に神聖同盟に加わったロシアも参戦しています。実はこの時期のロシアでは、強力なツァーリが登場していました。ピョートル大帝(在位:1682〜1725年)です。

大トルコ戦争の一環として行われた露土戦争では黒海の一部であるアゾフ海を確保し、さらにスウェーデンとの大北方戦争ではバルト海の覇権をも手にします。ピョートル大帝は、バルト海・黒海・地中海への経路の確立こそ重要だと考えており、期待どおりの成果を収めたのです。

こうしてピョートル大帝はロシアをヨーロッパ列強の一角へと押し上げました。そして彼の死後も、歴代のツァーリたちは貿易拡大を目指す南下政策を掲げていきます。

こうして南下政策を開始したロシアとオスマン帝国は、幾度となく衝突することになるのです。

民族運動の活発化

17〜18世紀のヨーロッパでは、大トルコ戦争をはじめ多くの戦争が繰り返されていました。戦争が起きれば財政動員は避けられず、特に敗者は賠償金の支払いや領土喪失によって財政が悪化しがちです。

一方で、戦争は科学技術の発展も促します。相手に勝つための研究や工夫の中から新たな発見が生まれるのは自然な流れでした。

こうした背景のもと、ヨーロッパでは科学革命が起こります。そして科学革命を支えた思想はさらに発展し、近代哲学も台頭していきます。

やがて絶対王政が常識だったヨーロッパにおいて、「理性によって人間の可能性は広がる」という近代哲学の思想から、啓蒙思想が生まれます。

啓蒙思想が発展すると、「既存の価値観は非合理的ではないか」「理性的なものに置き換えるべきではないか」という、封建社会を否定する考え方が広がっていきます。さらに啓蒙思想が深まると、「個人は封建的な身分に縛られることから解放されるべきだ」という自由主義の思想も誕生しました。

この理想を実現しようとしたのがフランス革命です。ところがフランスは、亡命貴族が各国に働きかけて革命政府の打倒を訴えたため、周辺国から攻撃される危機に陥ります。そんな苦境を救ったのがナポレオンでした。

周囲の抑圧を受けながらも連戦連勝を重ねたナポレオンに、民衆は熱狂します。「我が国はすごい!」「我々の民族はすごい!」――戦争において国と民衆の間に一体感が生まれれば士気は高まります。こうしてナショナリズム(国民主義・民族主義)の考え方が強まっていったのです。

やがてナポレオンは失脚しますが、ウィーン体制は自由主義やナショナリズムといった思想を抑圧しようとします。それでも、これらの思想を完全に消し去ることはできず、ヨーロッパ全体へと広まっていきました。

その波及先の一つがバルカン半島です。衰退し始めていたオスマン帝国に対し、ギリシャ独立戦争をはじめとする独立運動や反乱が各地で発生します。こうした領土問題や民族問題は、総称して東方問題と呼ばれています。

この一連の独立運動を後押ししたのがロシア帝国でした。ロシアはナポレオン戦争を通じて他のヨーロッパ諸国と比較し、自国の後進性を痛感します。そこで経済をさらに強化するために貿易に注力し、衰退しつつあるオスマン帝国の領土へ影響力を及ぼそうとしていたのです。

オスマン帝国のヨーロッパ依存

18世紀には、オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島の一部地域が、ロシアの協力を得ながら独立を始めます。一方、ロシアの伸長を時に脅威と見なした他の列強は、オスマン帝国を支援する側に回りました。

ここで、18世紀にもう一つの大きな変化が起こります。産業革命です。

産業革命はまずイギリスで始まり、徐々にヨーロッパ各国へと広がりました。ヨーロッパ列強から支援を受けていたオスマン帝国は、産業革命を経験した国々の先進性を痛感します。

そこでオスマン帝国は「このままではいけない」と、列強から資金を借り入れ、先進的な知識・技術・制度を取り込もうとします。

こうしてヨーロッパとオスマン帝国の交流が深まるにつれ、経済的な結びつきも強まりました。しかし、経済格差のある貿易の結果、オスマン帝国は特定の原料をヨーロッパへ輸出するモノカルチャー経済(単一作物経済)の泥沼にはまり込んでしまいます。

多額の借金を重ねただけでなく、ある意味で経済的には植民地のような状態になってしまったのです。

一方、ヨーロッパ各国でも大量生産が進んだ結果、商品は余剰気味になり、売れなければ利益が出ず、不況に陥ります。オスマン帝国も、貿易相手国の不況に引っ張られる形で景気が悪化していきました。

帝国主義の時代へ

帝国主義とは、自国の優位性を保つために軍事力や政治力を用いて他国を支配下に置き、勢力圏を拡大しようとする考え方・政策のことです。

言葉自体は19世紀後半から使われるようになりましたが、15〜18世紀に西洋諸国がアジア・インド・アメリカ大陸の領土を獲得した時代も、広義には帝国主義の時代と言われています。

産業革命後、不況で商品の売り場も投資先もなくなると、資本の行き先は軍事力の増強へ。増強した軍事力で市場を拡大し、植民地を獲得する――こうして帝国主義による領土拡大の時代が到来しました。

バルカン戦争(1912〜1913年)へ

以上のような経緯から、ヨーロッパ列強は領土拡大へと向かっていきます。衰退著しく、地理的にも近いバルカン半島は、特にオーストリアとロシアにとって領土拡大の標的となりました。

これこそが、バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった背景です。

やがて幾多の事件を経て、バルカン半島では二度の戦争――バルカン戦争が勃発します。バルカン諸国間の対立はさらに深刻化し、危機的な状況が醸成されて、世界は第一次世界大戦へと迫っていくのです。

バルカン戦争の詳細については、次回の世界史記事でまとめます。