ドイツ軍最後の必死の反撃
劣悪な状況の中で持ちこたえ続けていたバストーニュだが、12月26日の午後、勇敢なアメリカ守備隊はついに救援される時を迎えようとしていた。しかし、その直前、ドイツ軍は「最後の必死の試み」と呼ぶべき攻撃を仕掛けた。それはむしろ、絶望の表れのようにしか見えないものであった。
第26国民擲弾兵師団の1個群(グルッペ)が、駆逐戦車10両の支援を受けて、エムルール南方のイル・ラ・ヘス地点からアメリカ軍の防衛線を突破した。当初は攻撃は順調に進んだかに見えたが、まもなくドイツ軍はバストーニュ西方に展開するアメリカ軍榴弾砲からの激しい砲火を浴びることになった。
歩兵部隊はたちまち一掃され、駆逐戦車6両が破壊された。残った4両は単独で前進を続けたものの、大きな溝(堀)によって足止めされると、アメリカ軍の砲兵と駆逐戦車によって完全に排除されてしまった。
包囲網が破られた瞬間
一方、バストーニュ南方でアメリカ第4機甲師団の進撃を阻止しようとしていたドイツ第5空挺師団も撃退された。そして午後4時45分、第326空挺大隊は、「味方と思われた3輌の軽戦車」と接触したばかりである旨を報告したのである。
こうして包囲は解かれた。バストーニュが持ちこたえることができたのは、第101空挺師団とその増援部隊の献身的な努力によるものであり、彼らは第5装甲軍の西進を大きく妨げ続けていたのである。ドイツ軍はその後数日間にわたり、第4機甲師団が開いた南側の回廊を断ち切ろうと必死の攻勢を続けたが、すべて徒労に終わり、1945年1月1日にはバストーニュに対する脅威はついに取り除かれた。
双方の損害
包囲中の過酷な状況下では、籠城側の正確な兵力を把握することが不可能だったため、損害の記録はあくまで概算にとどまる。それでも、第101空挺師団は将校105名と兵員1,536名を失い、敵の機甲攻撃の阻止に重要な役割を果たした第10機甲師団B戦闘コマンドも、将校25名と兵員478名という損害を被った。
一方、ドイツ軍側では、XLVII装甲軍団傘下の2個装甲師団が約2,500名の戦死者と、1,000名を超える捕虜を出すことになったのである。