ジョアシャン・ミュラ(Joachim Murat)は、1767年3月25日にフランス南部のラ・バスティッド=フォルテュニエール(現ラ・バスティッド=ミュラ)で生まれ、1815年10月13日にナポリ王国のピッツォで銃殺刑に処された。ナポレオン・ボナパルト麾下のフランス帝国元帥であり、後にナポリ王として即位した人物である。

神学校から軍隊へ――革命が拓いた出世の道
宿屋を営む家に生まれたミュラは、カオールの神学校で聖職者を目指して学んでいた。ところが同級生との争いがもとで退学処分を受け、教会でのキャリアへの道は閉ざされてしまう。そこで彼は1787年2月、アルデンヌ猟騎兵連隊に騎兵として志願入隊した。
フランス革命と対外戦争の勃発は、ミュラに破格のスピードでの昇進の機会をもたらした。1792年5月には曹長(マレシャル・デ・ロジ)となり、同年10月中旬には早くも少尉に昇進。当時の彼は過激な共和主義的言動で知られ、かつて尊敬していた同志たちを告発することさえ厭わず、崇拝していたジャン=ポール・マラーが暗殺されると、自らの姓を「マラ」に改めようとまで考えたという。
ロベスピエールの失脚後、粛清の波にさらされたミュラだったが、カヴェニャックの庇護によって訴追を免れた。そして1795年10月5日(ヴァンデミエール13日)、王党派の蜂起に対抗するため、サブロン平原の砲兵陣地からヌイイ経由でチュイルリー宮殿へ40門の大砲を運び込むことに成功する。この働きを目にしたボナパルトは、ただちに彼を旅団長に抜擢した。

ボナパルトの副官として――イタリアからエジプトへ
こうしてミュラはボナパルトの第一副官となり、新たな忠誠の対象を見出すことになる。向こう見ずと言われるほどの勇猛さは、イタリア戦役においてもエジプト遠征においてもひときわ際立っていた。1799年7月25日、アブキールの戦いの戦場で師団将軍に昇進した彼は、ボナパルトとともにフランスへ帰国し、ブリュメール18日のクーデタ(1799年11月9日)にも重要な役割を果たした。
執政府親衛隊司令官に任じられた後、1800年1月20日、ミュラは第一統領ボナパルトの妹カロリーヌと結婚し、名実ともにボナパルト一族の一員となった。
元帥、大公、そしてナポリ王
マレンゴの戦い(1800年6月14日)における武勇は、彼に名誉のサーベルをもたらした。帝政の成立後は、帝国元帥、大提督、さらに「フランス皇子(プリンス)」の称号と、栄典が次々と授けられる。1805年の華々しいドイツ戦役の後にはベルク=クレーヴェ大公に封じられ、1807年のアイラウの戦いでは、その大規模な騎兵突撃が苦戦を強いられていた戦況を決定づけた。
その後、スペインでは国王ジョゼフ(ナポレオンの兄)の下で王国中将を務めたが、1808年7月15日、その後任としてナポリ王の座に就く。以降のミュラは、フランス帝国の方針とは別個に、自らの統治政策を展開していくことになる。
揺らぐ帝国と玉座を巡る駆け引き、悲劇的な最期
帝政が傾き始めると、ミュラは何としても自らの王冠を守ろうと奔走した。1812年のロシア戦役では華々しい指揮ぶりを発揮したものの、1813年初頭には敗走する大陸軍を離れてナポリへ帰還し、イギリスやオーストリアとの交渉を開始する。しかし義兄ナポレオンからの要請には応じ、1813年のザクセン戦役では騎兵軍団の指揮を執った。
だが、ナポレオンがイタリア王国の譲渡を拒んだことで、ミュラは1814年1月11日にオーストリアと同盟を結ぶ。ところが今度はブルボン家がナポリ王位の返還を要求すると、百日天下の間に再びナポレオンの陣営へ馳せ参じた。しかし1815年5月2日のトレンティーノの戦いで敗北を喫し、カラブリア海岸のピッツォに上陸したところを捕縛され、銃殺刑に処されたのである。
ナポレオンはミュラの勇敢さを認めながらも、「見識の乏しさ」、そして「極端な優柔不断と感情の高ぶり」をその弱点として挙げている。