
概要
ジャン=バティスト・クレベール(1753年3月9日、ストラスブール生まれ - 1800年6月14日、カイロにて暗殺)は、フランス革命戦争期に活躍した将軍の一人である。ヴァンデ戦争とエジプト遠征での活躍で特に知られ、ナポレオン・ボナパルトから「軍神マルスそのもの」と評された武将でもある。
青年期と革命前の経歴
生い立ちと建築家への道
ストラスブールのタンネール溝8番地で生まれ、サン・ピエール・ル・ヴィユ教会で洗礼を受けたクレベールは、父ジャン=ニコラ・クレベールを出生から3年で亡くし、継父ジャン=マルタン・ビュルガーに育てられた。ストラスブールのジャン=シュトゥルム・ギムナジウムで学んだ後、16歳で第1ユサール連隊に入隊するが、母の呼び戻しで除隊。その後、芸術工芸図画学校(ポエル・ド・ラ・トリビュ)で学び、ゲーテが同時期に同所に滞在していたという興味深い接点も持つ。1772年から1774年にかけてパリで建築家シャルグランのアトリエで修業を積んだ。
オーストリア軍での挫折
1777年、バイエルンのミュンヘン軍事学校に士官候補生として入校し、約8ヶ月後にオーストリア軍のカウニッツ歩兵連隊に少尉として入隊。中尉まで昇進するも、1783年に退役した。出頭が遅れた主な理由は三つ:貴族出身でないこと(当時は出世の必須条件)、気性が荒く喧嘩っ早い性格、そして「ジャガイモ戦争」と呼ばれるプロイセンとの小規模衝突以外に実戦経験がなかった不運である。モンス、メヘレン、ルクセンブルクの駐屯地を転々とする日々だった。
建築家としての実績と革命への目覚め
1787年、タンのサン・テラール病院の新築計画を手がけ(翌年着工、途中で市庁舎へ用途変更)、1788年から1792年まではベルフォール市の公認建築師を務めた。この地で1790年10月21日の「ベルフォール事件」において王党派を鎮圧し、革命へのコミットメントを明確にした。
革命戦争での武功
ライン軍とマインツ防衛戦
1792年の宣戦布告とともにライン軍に加わり、1793年のマインツ要塞防衛戦で殊勲を挙げる。同年4月1日に准将、8月17日に少将へと昇進した。
ヴァンデ戦争の惨禍
マインツ臨時軍を率いてヴァンデ反乱鎮圧に派遣される。ティフォージュの戦いで敗れるもモンテギュで勝利し、第2次ショレの戦いでヴァンデ軍をロワール川北岸へ追いやった。しかしアンtramの敗走(共和軍4,000名戦死・全砲失う)で総司令官ルカヌと対立し、ルカヌが罷免される事態となる。
ロシニョル将軍の無能とクレベールの消極性により、ドルとアンtramでさらなる敗北を喫する。ヴァンデ軍がアンジェ、ル・マンへ進撃する中、共和軍は非公式にクレベールとマルソーの指揮下で再編される。ル・マンの戦い(1793年12月)とサヴネの戦いで反乱軍を壊滅させたが、負傷兵・女性・子供を含む数千人の虐殺が行われた。クレベールとマルソーはこの「青服兵(共和軍)の殺戮の狂気」に抗おうとしたが無力だった。
「サヴネを通過する際、各縦隊が別方向へ反乱軍を追撃した。虐殺は恐ろしいものだった。至る所に死体の山が見える。大半はモントワール沼で溺死し、残りは森へ逃げ込んだが、すぐに発見されて殺されるか捕虜となった……数千人のあらゆる年齢・性別の捕虜が相次いで連行された。人民代表たちは彼らを革命法廷にかけ、フランス中、ヨーロッパ中がこれらの惨劇を知ることになる。ナント市は特にこの血塗られた未曾有の光景の舞台となり、私の筆はそれを描写することを拒む……」(回想録 341-342頁)
「反乱軍は虎のように戦い、我々の兵士は獅子のように戦った。」(同 330頁)
サヴネ後、マルソー離脱まで代理総司令官を務め、ルイ=マリー・テュローに交代するまで「地獄の縦隊」による焦土作戦に反対し、軍事占領案を提示したが退けられた。1794年5月までブルターニュのシュアン鎮圧にあたり、その後北方軍へ転属した。
フルールスの戦いでの活躍
6月16日:左翼指揮官として
サンブル・エ・ムーズ軍(総司令官ジャン=バティスト・ジュルダン)の左翼を指揮。フリードリヒ・フォン・ザクセン=コーブルク元帥相手に初戦は敗北したが、ヴァルテンスレーベン縦隊を撃退し、撤退戦を指揮して軍をサンブル川へ秩序よく渡河させ、10日後の勝利へ繋げた。
6月26日:予備隊指揮官として
予備隊指揮ながら戦局を左右した。モンテギュ将軍がラトゥール将軍に押されているのを見て師団を増援に出すが遅れて撤退。クレベールは高地に砲兵を配置してモンテギュを支援し、ベルナドット師団を陽動に回してマルキエンヌの要衝を死守。オーストリア軍が躊躇した隙に自ら縦隊を率いてラトゥール左翼を強襲、デュエム旅団で背後から包囲し、シャルルロワ陥落の報を受けたラトゥールを総退却に追い込んだ。
ナポレオンとの出会いとエジプト遠征へ
総裁政府の不興を買い、マインツでの功績にもかかわらずシャイヨーで閑職に甘んじていたクレベールの前に、1797年11月、イタリア遠征から帰還したナポレオンが現れる。クレベールはボナパルトに心酔し、エジプト遠征の準備に加わった。
エジプト遠征
アレクサンドリア占領とシリア遠征
1798年7月2日、アレクサンドリア攻略戦で突撃縦隊の一つを指揮し、額に銃創を負う。療養後、ボナパルトが残した守備隊の指揮を任され、10月18日にカイロへ到着。3ヶ月後にシリア遠征軍に加わり、エル・アリシュの戦い、タボル山の戦いで中核を担い、サン・ジャン・ダクル要塞の最後の(失敗に終わった)総攻撃に参加した。
総司令官としての采配
1799年8月22日、ナポレオンが帰国する際にエジプト軍総司令官を託される。1800年1月24日、イギリスのシドニー・スミス提督とエル・アリシュ条約を結び、名誉ある撤退を図るが、キース提督が条約を反故にし、武装解除・捕虜化を要求。クレベールは兵士に向かって「このような無礼には勝利でのみ応える。兵士たちよ、戦う準備をせよ」(ストラスブールのクレベール広場の銘板に刻まれる言葉)と宣言し、戦闘を再開。
3月20日、ヘリオポリスの戦いでイギリスが派遣した6万のトルコ軍を撃破。上エジプトを奪回し、カイロの反乱をフランス軍砲兵で鎮圧した。民間人虐殺、トルコ捕虜虐殺、宗教軽視、モスク冒涜などの蛮行が兵士によって繰り返される中、クレベールは統治を軌道に乗せつつあった。
暗殺と最期
1800年6月14日、シリア人学生スライマン・エル・ハラビに短刀で心臓を刺され暗殺された。犯人は軍法会議で「拳を焼かれ、生きたまま串刺し」の刑に処された。執行人バルトレミーの手記によれば、刑場で水を飲ませられた瞬間に絶命したという(4時間生存)。
後任はライバルのメヌー将軍(イスラム教に改宗しアブドゥッラー=ジャックと名乗る)で、消耗しきった遠征軍の撤収を担うことになる。
クレベールの遺骸はマルセイユ経由でシャトー・ディフに放置されていたが、1818年ルイ18世の命でストラスブールへ帰還。武器広場(現クレベール広場)地下の納骨堂に安置され、1840年6月14日、没後40年目にフィリップ・グラス作の銅像が建立された。
個人文書は国立公文書館蔵(記号 196AP8)。
フリーメイソンリー
フランス侵攻前、エジプトにフリーメイソンは存在しなかった。ボナパルトの入会の有無は不明だが、クレベールを含む複数の将校が会員だった。ボナパルト帰国後、アレクサンドリアに「イシス・ロッジ」が設立され、クレベールが初代ヴェネラブル・マスター(正当長)を務めたが、彼の死とともに消滅した。
顕彰と記憶
- 1898年8月5日、マロ=レ=バンにクレベール通りが命名。
- 1838年12月15日、クレベール広場(旧武器広場)中央の銅像下の納骨堂に改葬。像はキース提督の降伏要求書を手に「兵士たちよ、この無礼には勝利でのみ応える。戦う準備をせよ」と檄を飛ばす姿を表す。1840年6月の除幕式は、七月王政下の「和解と忘却」の風潮の中で、グーテンベルク像除幕の盛大な式典の10日前にひっそりと行われた。
- 1940年、ナチス当局により銅像撤去(広場はカール・ロース広場と改名)、遺骸はクローネンブルク軍人墓地へ移され、ポリゴンの記念碑も破壊された。1945年勝利後、像と遺骸は元の場所に戻された。
- ヴァンデ戦争とエジプト遠征での民間人虐殺の指揮責任があるにもかかわらず、革命の軍人としてパリ・エトワール凱旋門に名が刻まれている。
同時代人の評価
- ナポレオン・ボナパルト(サン・ヘレナ島にて):「勇気、構想力、すべてを備えていた……彼の死はフランスにとって、私にとって取り返しのつかない損失だ。彼はマルス、戦争の神そのものだった。」
- オノレ・ド・バルザック『ランジュ公爵夫人』(1834年)で、モンリヴォー将軍の風貌を通じて描写:「大きく角ばった頭、豊かな黒髪が顔を覆い、額の力強さ、顔の造作、目の静かな大胆さ、突出した特徴から滲み出る情熱……まさにクレベール将軍そのものだ。」
- ヴィクトル・ユーゴー『懲罰』(1853年)でクレベール崇拝を詩う:「鉄と鉄がぶつかり合い/弾丸の中を翼あるラ・マルセイエーズが飛ぶ/太鼓、砲弾、爆弾、シンバル/そして汝の笑い、おおクレベール。」
- アントワーヌ=アンリ・ジョミニ(将軍・軍事理論家):「クレベール将軍は革命期の最良の将軍の一人に数えられ、ボナパルトとモローの直後に位置づけてよい。軍中一の美男で、巨躯、高貴な風貌、勇気と匹敵する怪力、軍事的天才が併せ持ち、同僚たちに絶大な威信を持った。……ナイルのほとりで悲劇の死を遂げるまで、常に栄光の戦場にあった。」
- カファレッリ(同僚将軍、利害関係のない立場から):「このヘラクレスを見よ、その天才が彼を喰らいつくしている!」