ジャン・バールとは
ジャン・バール(Jean Bart、1650年10月21日 ダンケルク生まれ - 1702年4月27日没)は、フランス王国に仕えた伝説的な私掠船長(コルセール)である。商人航海者の家系に生まれ、ルイ14世の戦争において数々の武勲を立ててその名を馳せた。
父はコルニル・バール、母はカトリーヌ・ヤンセン。当時のダンケルクの人々にならい、その名はフラマン語訛りで「ヤン・バート」と発音されたという。
年表でたどるジャン・バールの生涯
幼少期とオランダ海軍時代(1652年~1671年)
1652年9月16日 ― ダンケルクがスペイン領となる。
1658年6月23日 ― デューンの戦いでテュレンヌ率いるフランス軍がダンケルクをスペインから奪還。しかし同日のうちに、ルイ14世はこの街を同盟国イングランドへ引き渡した。
1662年 ― イギリス臣民だった12歳のジャン・バールは、密バールは、密輸船のキャビンボーイとして初めて海へ出る。同年12月2日、チャールズ2世からダンケルクを買い戻したルイ14世が入城。
1666年 ― フランスがオランダと同盟しイングランドと敵対。父コルニルはオランダ側に仕えて戦死する。ジャンは名将デ・ロイテル提督麾下のオランダ艦「セプト・プロヴァンス号」に水兵として乗り組んだ。
1667年 ― オランダ艦隊がテムズ川を遡上してロンドンを脅かし、ブレダ条約が締結される。ロイテルはジャンにブリガンティン「カナール・ドレ(黄金の鴨)号」の指揮を委ねた。
私掠船長として頭角を現す(1672年~1678年)
1672年 ― ルイ14世が対オランダ戦争(仏蘭戦争)に踏み切ると、ジャン・バールはフランスへ戻り、私掠船「アレクサンドル号」の二番手として私掠活動を開始。翌年には砲2門搭載のガリオット船「ロワ・ダヴィッド号」の指揮を執った。
1674年 ― 4月2日、オランダのドーグレ船を拿捕して初の戦果を挙げる。2月にはイングランドがネーデルラント(すでにスペインと同盟)と講和。以降も4月6日にイングランドのピンネース船、5月16日にドーグレ船を捕獲し、この年だけで合計11隻の戦果を上げた。
1676年 ― 4月に砲8門の「ラ・ロワイヤル号」で漁船4隻を、続く「グラン・ルイ号」では28隻もの船舶を拿捕。同年9月、フランスがハンザ同盟に宣戦するとハンブルクで船を奪われるが、本人はなんとかダンケルクへ帰還した。
1677年 ― 砲24門のフリゲート「ラ・パルム号」を旗艦に6隻の小艦隊を率いて約20隻を捕獲。さらに砲14門の「ドーファン号」では、オランダの4本マスト船へ自ら斬り込んで乗り移った。
1678年 ― テセル島沖で、4隻の小艦隊を率いてオランダ海軍の強力な軍艦「シェーダム号」を強襲。手榴弾の爆発で手足と顔に重傷を負い、砲弾に脚の肉をえぐられながらも、ついに同艦をダンケルクまで曳航することに成功した。しかし8月10日のナイメーヘン条約締結により、対オランダ戦争は幕を閉じた。
平和な歳月と再びの戦火(1679年~1688年)
1679年1月8日 ― ルイ14世により海軍中尉に任官。ただしフランス、イングランド、ネーデルラントがともに平和だったため、しばらくは閑職に甘んじた。
1681年 ― 地中海を荒らすバルバリア海賊の討伐に出撃。砲12門のフリゲート「ラ・ヴィペール号」を指揮して海賊船を数隻捕獲するが、ほどなくフランスと海賊の間に休戦が成立した。
1682年 ― 母親が死去。数か月後には娘を、そして年末には23歳の若さだった妻ニコルを失う、悲しい一年となった。
1683年 ― 対スペイン戦争では地中海方面で船舶を拿捕するが、スペイン海軍はフランス海軍の相手にならず、カルロス2世は早々に休戦を申し入れた。
1686年8月14日 ― 王立海軍のフリゲート艦長に昇進し、砲24門のフリゲート「ラ・セルパント号」の指揮を執る。
1688年 ― デンマークやオスマン帝国と結んだフランスが、イングランド、ドイツ、スペイン、オランダ、サヴォイア、スウェーデンの大同盟(アウグスブルク同盟)との戦争に突入した。
名声の頂点へ(1689年~1696年)
1689年 ― フォルバンとともに、護送船団を守るため優勢な火力を持つイングランド艦2隻に挑むが、捕虜となってプリマスに投獄される。しかし脱獄に成功し、3日間のボート漕ぎの末にエルキーの海岸へたどり着いた。
1691年 ― トゥールヴィル提督の指揮下で外洋作戦に参加。同年、35~40隻のイングランド艦隊がダンケルク港を封鎖する中、夜陰に乗じてフリゲート7隻と火船1隻を率いて包囲網を突破。翌日にはロシア向け貨物船4隻と護衛のイングランド船2隻を拿捕した。戦利品を当時フランスと平和だったノルウェーの港へ収容すると、さらに出航してオランダ漁船団とその護衛軍艦をも捕獲。ついでスコットランド沿岸を襲撃し、城を略奪して4つの村を焼き払った。これらの武勇はフランス全土に響き渡り、ルイ14世は彼を宮廷に招いた。
1694年 ― 大同盟の海上封鎖により穀物価格が高騰し、商人たちの投機が横行、フランスは飢えに苦しんでいた。ジャン・バールはテセル沖で小麦を満載したオランダ船100隻余りを拿捕。この戦果の知らせによって穀物価格は暴落し、投機は一気に終息した。まさに「ジャン・バールはパンをもたらしてフランスを救った」(『ジャン・バールのカンタータ』)のである。この功績により4月19日、ルイ14世の御手から聖ルイ王立軍事勲章の騎士十字章を受けた。
1696年6月17日 ― ドッガーバンクでオランダに大勝利を収め、商船80隻を拿捕あるいは破壊した。
最期
1702年4月27日、ジャン・バールは胸膜炎のため51年の波乱に満ちた生涯を閉じた。平民出身ながら己の腕ひとつで海軍将官にまで上り詰め、飢えた祖国を救ったその姿は、今日でもフランス海軍の英雄として語り継がれている。