
背景――フェリー法案第7条とは何か
1879年、公共教育大臣ジュール・フェリーが提出した法案の第7条は、法的認可を受けていない修道会の成員、とりわけイエズス会士に対して自由な教育を禁じ、既存の学校から彼らを排除しようとするものだった。第三共和政の世俗化政策の核心をなすこの条項は、たちまち反教権主義の象徴となり、全国を巻き込む大論争へと発展していった。
共和派上院における予想外の抵抗
興味深いことに、フェリーが越えがたい抵抗に直面したのは、他ならぬ共和派が多数を占める上院においてであった。その抵抗の旗手となったのが、1877年5月16日の危機で閣僚会議議長を務めた経歴を持つ、名誉ある終身上院議員にして、著名な唯心論(スピリチュアリスム)哲学者、ジュール・シモンである。
共和主義左派の出身であり、第三共和政の最も尊敬される創設者の一人として仰がれていたシモンは、問題の法案に関する委員会の報告者として、自由の伝統――すなわち共和国の魂そのもの――に立脚した抗議を打ち出した。
「あなた方には教説を強制する権利はない」
シモンはこう述べた。
「あなた方には、いかなる教説をも押しつける権利はない。あなた方にあるのはただ一つの権利、自由を愛し、それを広めるという権利だけである。」
さらに彼は、フェリー率いる共和派に対し、共和国を牢獄に変えようとしていると非難した。第7条は「不要であり、危険であり、きわめて無謀な政治」だとされた。なぜ危険か。共和国が自由を制限するような外観を呈すること自体が危険を招くからである。しかも、法が「罪人」ではなく「容疑者」として罰するような、排除された人々のカテゴリーを新たに作り出すことは、まさに自由を著しく狭める行為にほかならなかった。
上院を揺るがした論戦
シモンとフェリーのこの対決は、上院を筆舌に尽くしがたいほどの混乱へと投げ込んだ。シモンは敵対者に向かって、こう言い放つことができたのである。
「フランスであなた方が何をしようとしているのかを知りたければ、上院をどんな状態に陥れたかを見るがよい。」
南仏遊説と「第7条万歳」の叫び
一方、フランス各地では情熱がたぎっていた。フェリー自身もその渦中に身を置くことになった。1879年9月、ボルドーからリヨンへ、トゥールーズ、モンペリエ、マルセイユを巡る閣僚視察旅行の途上、彼は南部の人々、さらにはリヨンの民衆の間に広がる第7条への熱狂を目の当たりにして歓喜した。妻フェリー夫人宛ての手紙の中で、彼はこう書き送っている。
「あの第7条こそ、共和主義者の聖なるものだ。第7条万歳!この叫びこそ、私の信じるところ、まさにフランス全体の叫びなのだ。」
ポール・ベールと「オーセールの祝杯演説」
この叙事n
この叙事詩さながらの闘争のさなか、フェリーの腹心の一人であるポール・ベールが、有名な「オーセールの祝杯演説」を行った。当時の戦闘的で反教権的な気風を色鮮やかに伝える例として、今日でもしばしば引用される演説である。
博学な生理学者であったベールは、輝くような顔貌と軽快な弁舌を備えた堂々たるブルゴーニュ人だった。その思考には微妙なニュアンスがなく、J・ディーツによれば、「調剤台からソルボンヌの研究室へと出世したオメー氏」――すなわちフローベールの『ボヴァリー夫人』に登場するあの薬剤師――と評されるほどの人物であった。
気高い人格にして熱烈な愛国者であった彼は、最も素朴な科学主義のあらゆる幻想を体現していた。ヨンヌ県選出の代議士として、宗教大臣に向けて捧げた祝杯演説の白眉の一節がこれである。
「私はフィロキセラの駆除に乾杯する。一つはブドウの木の下に潜むフィロキセラ、いま一つはブドウの葉の裏に潜むフィロキセラである。前者には二硫化炭素で対処できる。後者にはフェリー法の第7条がある。第7条が成立した暁には試してみよう。しかし万一期待どおりの効果が上がらなければ、フランスを救うためにより強力な殺虫剤を求めることを、我々は躊躇しないだろう。」
結び――チームを貫く反教権の精神
これらは、フェリーの側近たちが、陣営全体を突き動かしていた反教権的なエネルギーを表現した、疑いようのないユーモアに満ちた言葉であった。教権への闘争を害虫駆除になぞらえたこの比喩は、科学と進歩を信じる時代の空気を今に伝えている。