はじめに:教育をめぐる共和派とカトリック勢力の対立
19世紀末のフランス第三共和政において、最も先鋭な政治問題の一つが教育の世俗化でした。当時、国内には数多くの修道会(コングレガシオン)が学校を運営しており、その多くは国家の認可を受けていない「未認可」の存在でした。共和派は、こうした修道会が若者の精神を支配し、共和主義的人材の育成を妨げていると強く警戒していたのです。
1880年3月、閣僚評議会議長(首相)シャルル・ド・フレシネは、周囲の強硬な機運に押される形で、上院に対してはっきりと警告しました。もし高等教育法案から修道会の教育活動を禁止する第7条が削除されるなら、政府は「別の形で」より厳しい措置を講じるだろう、と。しかし上院はこの警告を退け、第7条を否決します。
上院の拒絶と、行政権による決断
上院の拒絶を受け、代議院(下院)は圧倒的多数をもって、未認可修道会に関わる既存法令の適用を政府に求める決議を採択しました。これを受けてフレシネは、グレヴィ共和国大統領に、のちに名高い「1880年3月29日の二つの布告」へ署名させたのです。
言い換えれば、上院の反対のために法律という手段で目的を達成できなかった共和派多数派は、行政権の行使へと路線を切り替えたことになります。高等教育法という間接的な道を通じてイエズス会のコレージュ(中等教育機関)を廃止できなかった彼らは、修道会そのものを直接解体することを選んだのです。
布告の内容
1880年3月29日の布告が定めた要点は次の三つです。
第一に、イエズス会は3か月以内に解散・分散されなければならないこと。
第二に、その他の修道会は3か月以内に国家の認可を申請しなければならないこと。
第三に、認可のない修道会が運営するすべての教育施設は6か月以内に解散させられること。
抵抗と実行:辞任する裁判官・警察官たち
布告に基づく追放は計画どおり実行されましたが、その過程では司法現場から強い抵抗が起こりました。検察当局のメンバーだけでも約200名が辞任し、さらには士官、警視、警察官にまで辞任者が及びました。自らの手で修道会を追い出すことに耐えられない公務員が少なくなかったことを示すエピソードです。
それでも結果として、261の修道院が閉鎖され、5,643人の修道者が追放されました。
フェリーの勝利、そしてその後
こうしてジュール・フェリー(当時、公教育大臣として布告の起草を主導)は「修道会との戦い」に勝利を収めました。上院の抵抗にも、穏健共和派ジュール・シモンの批判にも屈しなかったこの一撃は、第三共和政が教会勢力に対して仕掛けた数々の闘いの、最初のものであり、決して最後のものではありませんでした。
なお、その後の展開として触れておくべき点があります。多くの修道会は期限内に認可を申請し、1880年末から翌1881年にかけて相次いで認可を取得しました。一方、イエズス会には認可が与えられず、以後も追放状態が続くことになります。この問題の最終的な決着は、1901年の結社法によってもたらされることとなるのです。