万博に集う君主たち
あらゆる驚異に満ちた万国博覧会は、比類なき壮観を呈していた。それは人々を惹きつけただけでなく、何よりも諸侯や国王たちを惹きつけたのである。彼らはこぞってパリへとやって来た。最初に姿を見せたのは、ベルギー国王夫妻、ポルトガル女王、ロシアのマリア大公女、そしてスウェーデン王子オスカル(後のオスカル2世)。続いてウェールズ公(後のイギリス王エドワード7世)が上陸し、さらに大君の名代として、若き日本の貴公子・徳川昭武も訪れた。
とはいえ、祝賀の喜びは当初こそ幾分乱されていた。交戦の音はまだ聞こえていたからだ。もっとも、その響きは回を重ねるごとに弱まりつつあった。ほどなくしてアレクサンドル皇帝とヴィルヘルム国王の来仏が発表されると、不安は完全に消え去った。平和を疑う理由がどこにあろう。平和を脅かしうる唯一の人々が、今や我々の賓客となろうとしていたのだから。
皇帝アレクサンドル2世の到着
皇帝は6月1日に到着した。歓迎には公式の儀礼が一切欠けていなかった。しかしそれは心温まるものというより、礼節を守った無難なものであった。ポーランドとその悲運が、人々の記憶にまだ生きていたためである。皇帝の滞在先となるエリゼ宮殿までは、例によって豪華な飾り付けが施された。そして夜が来ると、皇帝はさっそく軍服を脱ぎ捨て、ヴァリエテ劇場へと足を運んだ。
そこで上演されていたのは『ジェロルスタイン大公妃』だった。このオペレッタはネヴァ川のほとりまで評判が届いていた作品である。ここから祝祭は連綿と続いていく。6月2日は万博の見学、3日はロンシャン競馬場での競走、4日にはテュイルリー宮殿での晩餐会とオペラ座での特別公演。しかしその歓喜には常に苦悩が影を落としていた。この年はまさに対照の年だったのだ。アレクサンドル帝がパリに入城したその日のうちに、ケレタロが陥落し、メキシコ皇帝マクシミリアンが完全に捕虜となったことは疑いようなく確認された。もはや彼に残された希望は、敵の寛恕を乞うことだけであった。
「ポーランド万歳!」――皇帝を苛立たせた声
皇帝の心には、もう一つの執拗な幻影が付きまとっていた。かつて自らが容赦なく懲らしめたあの民の姿である。クリュニー館へ向かった折、皇帝は群衆のざわめきの合間に、ポーランドを支持するはっきりとした抗議の声を聞き取った。同じ出来事は裁判所でも繰り返された。弁護士たちの一団の中から、よく通る叫びが上がったのである。
「ポーランド万歳!」
すると別の声が、デモを行う者たちに向かって「出て行け!」と怒鳴った。
不幸なことに、皇帝とその側近たちは二番目の叫びもまた、最初の叫びと同じく自分たちに向けられたものと受け取ってしまった。こうして、傷を癒すはずの言葉がかえって傷を深める結果となり、皇帝はひどく不快な思いでエリゼ宮へ戻ったのである。
プロイセン王ヴィルヘルムの来訪
君主たちの会合には、プロイセン王ヴィルヘルムの姿がなかった。王は6月4日にベルリンを出発し、翌日の午後4時にパリへ到着した。波止場で彼を待ち受けていたのは、かつて彼が死に追いやった男の甥であり、そして三年後には自らの手で帝位から引きずり下ろすことになる男――ナポレオン3世であった。古い因縁も近年の確執もあったが、両者の応対は互いに気負わない、和やかなものだった。
一方、ビスマルク伯は長い間、主君への随行をためらっていた。ところが、その迷いは恐怖ゆえだとする噂が彼の耳に届いた。この汚名をそそぐことを強く望んだ彼は、即座に出発を決意し、その意向をベネデッティ氏に伝えた。祝賀の行列では、彼は王室の馬車のすぐ後ろ、二番目の馬車に乗った。
ヴィルヘルム王にとって、観兵式に勝る光景はない。そこで、記憶に残るに値する盛大な式典が用意された。
6月6日の大観兵式
式典は6月6日と定められた。正午には全軍がカンロベール元帥の指揮下で配置についた。当時の非公式な新聞はこの兵力を6万人と報じたが、集結した大兵力を実地で測るのは困難であり、実際の兵力はおそらく3万5千人を大きく上回らなかったものとみられる。
軍事式典というものは、どこも似通っている。それでもこの観兵式だけは、ありふれた凡庸さを免れていた。華美な装飾の一切をまとった旧フランス軍の姿を、その最後に近い形で見せたからである。高価で、そして魅力的な、あの粋な飾り立ての数々。歩兵連隊は昔ながらの隊列で行進した。濃い髭を蓄え、白い長前掛けをまとい、大きな毛皮帽をかぶった工兵たち。全身金ピカに輝き、羽飾りをあしらった鼓笛隊長。緋色のスカートを翻す従軍酒保の女性たち。そして赤い肩章をつけた擲弾兵、黄色い肩章をつけた軽歩兵(ヴォルティジュール)からなる精鋭中隊が、各大隊の先頭と後尾を飾ったのである。