誰もがオーバーロード作戦、通称「D-Day(ノルマンディー上陸作戦)」を知っている。1944年夏に実施されたこの作戦は、第二次世界大戦の天秤を決定的に連合国側に傾けた歴史的転換点となった。
幻の先行計画「ラウンドアップ作戦」
しかし、このノルマンディー上陸の2年前、連合国内部の対立によって頓挫したもう一つの大規模侵攻計画があったことは、あまり知られていない。それがラウンドアップ作戦(Operation Roundup)である。1942年に立案され、「時期尚早」として破棄されたこの計画こそ、後のオーバーロード作戦の原型となったものだ。
1942年:枢軸国が優勢だった転換点の年
1942年は戦争の帰趨を左右する重要な年だった。アメリカが参戦したものの、日本軍はフィリピンから米軍を駆逐し、東南アジアの大半を制圧、インドやオーストラリアさえ脅かしていた。独ソ戦ではドイツ軍がロシア国内を無敵の勢いで進撃し、ベラルーシとウクライナを掌握、レニングラードを包囲し、さらにコーカサスの油田を狙っていた。北アフリカでも、イタリアの協力を得て英軍をエジプト方面へ追い詰めていた。

さらに、ユダヤ人に対する「最終解決(ホロコースト)」が本格化し、状況は一層深刻化していた。しかし、この年、潮目が変わり始める。
太平洋と北アフリカでの反転
太平洋ではミッドウェー海戦で米軍が日本の機動部隊を撃破、ガダルカナル島の戦いへと攻勢に転じた。ほぼ同時期、北アフリカではエル・アラメイン会戦で英軍がロンメル率いる独伊軍を撃破、枢軸国のアフリカ支配に終止符を打った。
東部戦線の激闘
ソ連ではスターリンがモスクワに留まって指揮を執り、必死の防衛と反攻を展開。莫大な犠牲を払いながらも、ソ連は人的資源で補いきったが、ドイツ国防軍はスターリングラードで泥沼化し、壊滅的打撃を受けることになる。こうして戦局の重心が連合国側に傾き始めたとき、1941年12月のアルカディア会談で提案されていた古い構想が再び浮上する。

「ドイツ第一」戦略とボレロ計画
真珠湾攻撃(1941年12月7日)の4日後、ヒトラーはアメリカの産業力と軍事力を過小評価し、対米宣戦布告という致命的な誤りを犯す。同月、ワシントンで開かれた会談で連合国は「ドイツ第一(Germany First)」戦略を採択。日本より強力なドイツを優先的に撃破する方針を固めたが、世論はハワイで奇襲を受けた日本への報復を求めており、必ずしも一致していなかった。
当時、米軍の主力は太平洋にあったため、これをイギリスへ段階的に移送するボレロ計画(Operation Bolero)が立案された。しかし、これはあくまで「第一歩」に過ぎなかった。
ラウンドアップ作戦:大陸侵攻の本命
真の目的は、英米合同でフランスから欧州大陸に侵攻し、ヒトラーを窮地に追い込んだ後で日本に対処することだった。この大陸侵攻計画にラウンドアップ作戦という名が与えられた。

アイゼンハワーの強硬な主張
ドワイト・D・アイゼンハワーはこの作戦の熱烈な支持者だった。ルーズベルト大統領の「早期決戦で犠牲を最小限に」という方針に従い、戦場を大陸に移す最短ルートであるフランス海岸への上陸を、翌年1942年中の実施を提案した。参謀総長ジョージ・マーシャルも熱心に賛同したが、イギリス軍首脳陣には「冷や水」を浴びせられた格好となった。
イギリスの懐疑論:ソンムとガリポリ、そしてディエップ
イギリスの慎重論には確かな理由があった。第一次大戦のソンム会戦での惨禍が記憶に鮮明であり、チャーチル自身もガリポリ上陸作戦の失敗を肝に銘じていた。さらに直近では、1942年8月19日のジュビリー作戦(ディエップ襲撃)が大惨事に終わっていた。カナダ第2歩兵師団が事実上壊滅し、投入兵力の半数以上(約3,500名)が死傷・捕虜となったのだ。

「安全第一」のイギリス、経験値不足のアメリカ
イギリスも早期決着を望んではいたが、「安全確実に」を優先した。独ソ戦で赤軍がドイツ国防軍を自国国境外へ押し返し始めるまで待ち、その間に未熟な米軍が経験を積み、圧倒的な侵攻戦力を整えるべきだと考えたのだ。
しかし、1942年秋から1943年初頭にかけての地中海戦線(トーチ作戦など)が予想以上に長引き、ボレロ計画は繰り返し延期される。トーチ作戦(チュニジア上陸)だけでも輸送船116隻、護衛艦195隻を要した。イギリス国内に残った米軍は第29歩兵師団と州兵の一部、英軍22個師団とカナダ軍4個師団(予備役・訓練中)のみだった。
ラウンドアップ作戦がブローニュとル・アーヴルに橋頭堡を築くために見積もった必要戦力は48個師団と5,800機の航空機。翌年ノルマンディーで投入された39個師団を上回る規模であり、当時としては完全に非現実的だった。イギリスはこの数字を突きつけ、1943年上陸の無謀さを説得。ついにはマーシャルまでもがルーズベルトに「ドイツ第一」戦略の見直しと太平洋重視への転換を進言する事態となった。
妥協の産物:地中海戦線への集中
共通戦略の破綻を避けるため、妥協案がまとめられた。
- イギリスは太平洋戦線の重要性を認め、協力する
- アメリカは欧州戦線の優先順位を維持する
- 次なる作戦は地中海(シチリア侵攻など)とする
- 仏本土大規模侵攻の検討は1943年末まで先送りする
- 統合司令部(COSSAC)を新設する

COSSAC(連合国最高司令官参謀部)の長には当初、アイゼンハワー(米)とモーガン(英)のコンビが想定されたが、最終的にはマウントバッテン卿が就任。ラウンドアップ作戦の実務指揮はマーシャルが担うことになった。しかし、計画と現実は乖離する。地中海戦線の開設と太平洋への配慮により、念願の大陸上陸は再び先送りされた。
スレッジハンマー作戦:縮小版の挑戦も失敗に
アイゼンハワーもチャーチルに対し、本格的な欧州侵攻は1944年以前には不可能だと認めた。代わりに小規模作戦としてスレッジハンマー作戦(Operation Sledgehammer)——ラウンドアップの第3段階(中間段階はラウンドハンマー作戦)——が提案された。コタンタン半島(ノルマンディー北部)の戦略港シェルブールを占拠し、赤軍の前進を支援する狙いだ。

しかし、同地は重砲沿岸砲台と要塞群、至近のマルペルテュ=シュル=メールとカルクヴィルの飛行場からルフトヴァッフェ(独空軍)が出撃可能な要衝だった。成功は極めて疑わしく、イギリスは再び拒否。チャーチルとソ連(モロトフがロンドン訪問時に支持)が前向きだったものの、ルーズベルトは「ロシアを助けるための行動は拒否する」と一蹴。結局、シェルブールに配備された部隊はドイツ軍の反撃を受け、即座に撤退を余儀なくされた。
ノルマンディーへの道
再び「時期を待つ」ことが確定し、焦点は北アフリカのトーチ作戦へ移った。これはラウンドアップ作戦の準備研究の一部を流用する形で実施された。1943年1月のカサブランカ会議でフランス上陸は事実上棚上げとなり、代わりにイギリス主導のハスキー作戦(シチリア侵攻)が実行されることになる。
ラウンドアップ作戦は実行されなかったが、その計画過程で蓄積された膨大な資料、後方支援のノウハウ、英米共同作戦の枠組みは、2年後のオーバーロード作戦成功の不可欠な土台となった。歴史に「もしも」はないが、1942年・1943年の上陸が強行されていたなら、ディエップの悪夢がノルマンディー規模で繰り返されていた可能性は高い。連合国が「待つ」ことを選び、準備を徹底したからこそ、1944年6月6日の成功があったのだ。