
1949年1月、毛沢東率いる中国共産党勢力は北京を掌握した。同年3月初めには、中国側がヴェトミンとの連携を本格化させ始める。3月16日から17日の夜にかけて、ヴェトミン約1,500名が中国からの大規模な増援を受け、ナーチャンとタットケーの間に位置する2つの哨所を攻略した。さらに3月25日には、広東省から進出した人民解放軍部隊が、モンカイ占領寸前まで迫ったのである。
こうして脅威は、ついにデルタ地帯そのもの、そしてハノイへと及ぼうとしていた。
対立する二つの戦略
パリにおいても、遠征軍最高司令部が置かれたハノイにおいても、二つの戦略が激しく衝突していた。ひとつは、防衛困難とみなされる北部山岳地帯を放棄し、デルタの死守に戦力を集中すべきだとする「ルヴェール案」。もうひとつは、国境沿い全体にプレゼンスを維持し、ベトナムと中国の共産主義勢力による完全な合流――長期的にはフランスの敗北を意味するシナリオ――を防ごうという構想である。この論争は、1年以上も続いた。
ドンクエ陥落がつけた決着
論争に終止符を打ったのは、1950年9月17日、ギアップ率いるヴェトミン軍によるドンクエの第二次攻略戦である。極めて激烈な戦闘の末に同地が再び陥落したことは、フランス軍の各拠点に待ち受ける運命を如実に示していた。カオバンもその例外ではない。第3外人歩兵連隊第3大隊(フォルジェ少佐指揮)のレジョネア600名、航空機で増援として到着した第3タボールのグーミエ600名、パルチザン1,000名、山岳兵500名、そして城塞と砲兵部隊を擁するカオバンは、それでもなおインドシナ随一の堅固な要塞と目されていたのだ。
しかし、岩峰に囲まれて孤立するこの要塞は、砲兵を手に入れ、死者を顧みぬ戦いぶりで恐れられるギアップの精鋭部隊を相手に、果たしてどれほど持ちこたえられるのか。9月末、ついに撤退の決定が下された。9月30日、命令書はカオバン守備隊を指揮するシャルトン中佐のもとに届いたのである。
南22キロでの合流という条件
撤退命令は、シャルトン支隊をカオバンの南22キロ地点で、「バイヤール」と名付けられた別働隊――砲兵出身のルパージュ大佐(士官学校「サンヴニール」1921~23年組)が指揮――が迎え、支援すると定めていた。総勢5,000名となる両部隊の合流は、北部インドシナ陸上兵力司令官で撤退の反対派だったアレッサンドリ将軍に対し、シャルトン自身がかねて訴えていた懸念への回答でもあった。「R.C.4号線は20回以上走った経験がある。救援縦隊は少なくともカオバンの南22キロ地点まで来てほしい。18キロ地点で誰かが待っていてくれれば、もう心配はない」――そう語っていたのである。
「バイヤール」支隊の編成
一方のルパージュ支隊は、9月19日以来タットケーにあって日常的な任務に従事していた。ハノイのカルパンティエ将軍からは「全体作戦の一環として行動できるよう準備せよ」と求められただけで、その作戦の中身は知らされていなかった。
9月30日、ようやく具体的な命令が下りる。「バイヤール」支隊は次の部隊で編成された。9月17日・18日にタットケーへ空挺降下したセグレタン少佐の第1外人落下傘大隊(B.E.P.)、アルノー少佐率いる第8歩兵戦術大隊(R.T.M.)、フェジャス大尉とデルクロス少佐の第1および第11タボール、護衛用のグーミエ部隊、そしてパルチザン50名である。任務は、10月2日正午までにドンクエを奪回すること。だが、その目的までは依然として知らされないままだった。
こうして悲劇の駒は、すべて盤上に並べられた。
3,000人の民間人を抱えて
1950年9月、フランス軍駐留の最後の時を迎えたカオバンには、兵士たちのほかに約3,000人の民間人が暮らしていた。トー族、華僑、ベトナム人、ヌン族、メオ族(モン族)。中にはパルチザンの家族も含まれていた。「現地の住民は、ことごとく仏印側の理念に心を寄せていた」とシャルトンは書き残している。民政長官のトゥー氏は、トー族出身でありながら皇帝バオ・ダイの支持者こそではなかったものの、フランスへの忠誠は揺るぎないものだった。彼はやがて、その忠誠の代償として命を落とすことになる。直前に授与されたばかりのレジオン・ドヌール勲章は、まさに「毒入りの贈り物」となったのである。
さらに、すでに撤退済みの旧拠点(チャーリン、グエンビン、バンカオなど)から逃れてきた多数の難民が、この町の人口にさらなる重圧をかけていた。
その後――R.C.4号線の惨劇へ
10月3日、シャルトン支隊は3,000人の民間人を伴ってカオバンを去った。しかし待ち受けていたのは友軍との安泰な合流ではなく、ギアップ軍が張り巡らせた包囲網だった。両支隊はR.C.4号線沿い、とりわけコックザー渓谷で壊滅的な打撃を受け、この撤退は第一次インドシナ戦争におけるフランス軍最大級の敗北のひとつとなったのである。