古代の歴史

援軍は全滅する──R.C.4の戦い、那産(タット・ケー)陥落への道

最期の虐殺

ここに至り、最後の虐殺が幕を開けた。ジャン・ピエールは外人落下傘大隊(B.E.P.)の生存者を点呼し、130名――ちょうど中隊ひとつに相当する戦力――を、それぞれ士官に率いられた5つの班へと再編成した。退却路は、那産(タット・ケー)へと通じるクアン・リエ渓谷である。しかし一行が渓谷を進むや、ベトミン軍の待ち伏せ攻撃がB.E.P.の残存兵力にとどめを刺した。これこそが「崩壊」の瞬間であった。

瀕死の重傷を負ったセグレタンは、自らの懇願によって現場に置き去りにされた。そして夜を徹して進んだ末、ジャン・ピエールを含むわずか23名だけが608高地にたどり着いたのである。彼らが那産の市街に入れたのは、2日後の10月10日火曜日――すなわち撤収が決定したその日になってからだった。その間にシャルトン中佐は捕虜となり、続いてルパージュ中佐もまた敵の手に落ちた。二人を待っていたのは、4年にも及ぶ過酷な捕虜生活だったのである。

完全に閉ざされた罠

10月9日から10日にかけてのこの2日間、ベトミン軍は那産の増援部隊に対して大規模な攻撃を仕掛ける好機を得ていた。シャルトンおよびルパージュ両縦隊――少なくともその残存部隊との合流を目指して動いた増援勢力は、次々と壊滅していった。那産へ増援として空輸されたばかりの、カゾー大尉指揮下の第3植民地落下傘コマンド群(G.C.C.P.)、そして第1B.E.P.の行進中隊は、包囲網の中で全滅したのである。罠は、もはや完全に閉ざされていた。

R.C.4の代償

R.C.4号線の惨事に関わった約5,000名の将兵のうち、生きて脱出することができたのは、39名の士官を含む1,840名のみだった。代償はあまりにも大きく、この惨敗はフランス軍全体に恐怖と混乱を巻き起こした。東渓(ドンケー)はベトミン軍の手に落ち、カオバン(高平)は周知のような悲惨な状況のもとで放棄され、最高司令部は完全に打ちのめされていた。10月10日――第3G.C.C.P.が壊滅させられたまさにその日、那産は撤収した。インドシナ戦争における「大撤退」の始まりである。

さらに悲劇的な出来事もあった。撤収後に那産へ到着した兵士たちがいたのだ。疲れ果てながらも、フランス軍との再会を喜び歓声を上げて駆け込んだ彼らを待っていたのは、味方ではなくベトミン兵だった。彼らはそのまま捕虜となり、収容所へと送られていくのである。