
アンナ・アフマートワとは
アンナ・アフマートワ(本名:アンナ・アンドレーエヴナ・ゴレンコ)は、20世紀ロシア詩を代表する女性詩人です。ロシア出身の彼女は、キエフで法学を学んでいた頃、アクメイズムの推進者であり、後の夫となる詩人ニコライ・グミリョフに出会いました。
キエフからパリへ――詩人としての出発
学業を終えた彼女はパリへ渡り、当時の画壇で最も注目されていた画家たちと交流を深めます。最初の作品は雑誌に掲載され、とりわけ恋愛詩は多くの読者の心をつかみました。しかし一方で、それがもとで「女性向けの詩人」という侮蔑的な評価を背負うことにもなります。さらに彼女は、赤色テロを逃れて亡命した人々の姿も詩に描きました。
野生の蜜は自由を放ち、
塵は――ひとすじの陽光を。
少女の唇は菫を、
黄金は――何ものをも放たない。[1]
ロシア詩「銀の時代」の象徴
20世紀初頭のロシア詩壇において、アフマートワは最も存在感のある女性詩人となり、やがて「銀の時代」と称されるロシア詩の爛熟期を象徴する存在へと押し上げられていきます。第一次世界大戦の勃発時、彼女の名声は頂点に達しました。ところがまもなく、読者の間では「個人的な悩みにばかり思いを巡らせる小市民」という見方が広まっていきます。
体制との衝突――排斥とテロの時代
1925年、党への忠誠を誓う声明書への署名を拒んだことが原因で、アフマートワは作家同盟から排斥されます。1932年にはソ連作家同盟が設立され、その第一回大会は2年後に開催されました。同じ年、彼女はスターリンの恐怖政治のただ中で執筆活動を再開します。もはや抑圧は、彼女の創作を止めるどころか、むしろ駆り立てる力となっていたのです。
翌年、夫グミリョフが銃殺されました。彼は「犠牲の詩人」の象徴となりました。ボリシェヴィキが詩人を処刑したのは、これが初めてのことでした。この喪失の痛みは、後に息子の逮捕を描いた『レクイエム』冒頭の有名な一節へと結実していきます。
木犀草は水を放ち、
愛は――林檎を。
だが私たちは永遠に学んだ、
血はただ血を放つのだと。[2]
息子の投獄と屈辱の選択
息子が投獄されると、アフマートワは面会のために刑務所前の行列に5年間も並び続けました。ソビエトの作家たちの中で、彼女は愛国的な詩や社会主義リアリズムに関する作品を発表し、それらはラジオを通じて放送されます。しかしまもなく、党員たちの気に入らない内容を書いたとしてソ連作家同盟から追放され、「性と宗教にしか関心がない」と非難を浴びることになります。
1949年に息子がふたたび投獄されると、彼女は息子を救い出すため、スターリンを讃える頌歌の執筆に戻らざるを得ませんでした。
晩年――遅すぎた復権
アフマートワが作家同盟に復帰できたのは、1962年になってからのことでした。とはいえ、その詩句が検閲の対象であり続けたことに変わりはありません。