
概要
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(1899年7月21日 - 1961年7月2日)は、アメリカ合衆国の小説家、ジャーナリスト、従軍記者。「簡潔で飾り気のない文体」で20世紀の小説に多大な影響を与え、冒険的な生涯と公的なイメージでも知られる。1920年代半ばから1950年代半ばにかけて主要作品を執筆し、1954年にノーベル文学賞を受賞。『老人と海』(1952年)でピューリッツァー賞も獲得した。生前には長編7作、短編集6冊、ノンフィクション2冊を刊行。没後も長編3作、短編集4冊、ノンフィクション3冊が出版されている。
生い立ちと青年期
シカゴ郊外オークパークでの幼少期
イリノイ州シカゴ西郊のオークパークで、医師の父クラレンスと音楽家の母グレイス・ホールの間に次男として誕生。6人兄弟の長女マルセリーヌ(1898年生)、本人、ウルスラ(1902年)、マデレイン(1904年)、キャロル(1911年)、レスター・クラレンス(1915年)とともに育った。両親は教養があり、保守的なコミュニティで尊敬されていた。母グレイスの父アーネスト・ホールと同居していたため「アーネスト」と名付けられたが、本人はオスカー・ワイルドの戯曲『真面目が肝心』の主人公と結びついているとしてこの名を嫌っていた。
ミシガン州ウォールーン湖畔の別荘「ウィンデミア」で過ごした夏の思い出――父と共に狩猟、釣り、キャンプを学び、10歳で最初の散弾銃を手にした経験――が、生涯にわたるアウトドアへの情熱と孤立した環境への憧れを育んだ。母からチェロを強要され葛藤したものの、後年に「対位法的な構成」(『誰がために鐘は鳴る』)に役立ったと認めている。
高校時代と記者への道
1913年、オークパーク高校に入学。シェイクスピア、ディケンズ、スティーブンソンに親しみ、スポーツと文化活動に熱中。1916年には校内文芸誌『タビュラ』と『トラピーズ』に初の小説と詩を発表。1917年卒業後、大学進学を断り、伯父アルフレッド・タイラー・ヘミングウェイの伝手で『カンザスシティ・スター』紙の記者となる。
第一次世界大戦と従軍体験
1917年4月のアメリカ参戦時、視力不良で徴兵を免れる。1918年4月、イタリア赤十字の救護車運転手として渡欧。ボルドー経由でミラノに到着し、前線へ。7月8日、フォッサルタ・ディ・ピアヴェ付近で兵士たちにチョコレートとタバコを届けている最中、迫撃砲の直撃を受け両脚に重傷を負う。戦友を担いで避難中に機銃掃射で再び被弾しつつ、救護所までたどり着いた。ミラノの病院で3か月の療養中、8歳年上のアメリカ人看護婦アグネス・フォン・クオウスキーと恋に落ち、『武器よさらば』のヒロイン、キャサリン・バークレーのモデルとなる。
パリ時代と「失われた世代」
1921年3月、『トロント・スター』紙特派員としてギリシャ・トルコ戦争のイノニュでの戦闘を取材。同年11月に同紙の外国特派員としてパリへ移り、1922年1月から1923年8月までラテン地区のカルディナル・ルモワーヌ通り74番地3階に妻ハドリーと暮らす。ゲルトルード・スタイン、エズラ・パウンドらと交流し、ピカソ、ミロ、グリスら画家とも親交を深める。スタインから「失われた世代」の呼称を得て、自身の処女長編『日はまた昇る』(1926年)の冒頭に引用した。
初期の代表作
『日はまた昇る』(1926年)
短編集『現代風』(不評)に続く初の長編。旧約聖書『伝道の書』1章3-7節からタイトルを取り、「失われた世代」の虚無と彷徨を描く。パリからパンプローナの闘牛祭へ向かう若者たちの姿を通し、戦後の価値観崩壊を冷徹に描き出し、ベストセラーとなる。
『武器よさらば』(1929年)
第一次世界大戦を舞台に、アメリカ人救護車運転手とイギリス人看護婦の恋と悲劇を描く。戦後11年を経て刊行されたのは、「感情は過ぎ去った後にしか喚起できない」という美学的信念による。愛国的詩篇から借りたタイトルとは裏腹に、戦争の無意味さと愛の脆さを突きつける極めてペシミスティックな作品。
キー・ウェスト、キューバ、そしてスペイン内戦へ
1927年、ハドリーと離婚しポーリン・ファイファーと再婚。1928年、フロリダ州キー・ウェストに移住、その後キューバ・ハバナ近郊に拠点を移し、マグロ釣りや競馬に没頭する日々を送る。しかし「人間は永遠に孤立して生きられない」と悟り、個人主義の限界を描いた『持つ者と持たざる者』(1937年)を発表。ハリー・モーガンという漁師が貧困から密輸に手を染め、最後に「男は独りではダメだ」と気づく姿を通し、ヘミングウェイ自身の転換点となった。
スペインでファシズムが台頭すると黙っていられず、1937年、共和派側の従軍記者としてスペイン内戦に参加。この体験が『誰がために鐘は鳴る』(1940年)の素材となり、マルローとも出会う。戦場の惨状を目の当たりにし、抽象的な言葉の虚偽と空虚さを痛感する。
文体の確立――「真実の一文」を書く
短編『書くことについて』で、主人公ニック・アダムズが「セザンヌが絵を描くように書きたい」と語る通り、ヘミングウェイは「真実の一文を書け。君が知っている最も真実な一文を書け」という信条を貫いた。無駄を削ぎ落とした「テレグラフ体」とも称される簡潔な文体は、倫理的態度そのものであり、形而上学的な美学ではなく「美学は倫理を意味する」(サルトル)ものとして確立された。
第二次世界大戦
1944年6月から12月、再び欧州へ。ノルマンディー上陸作戦では「貴重な荷物」として上陸艇に留め置かれた(本人は上陸したと主張)。7月下旬、第22歩兵連隊(チャールズ・バック・ラナム大佐指揮)に同行し、パリ郊外ランブイエでレジスタンスの小部隊を率いるなど、従軍記者の枠を超えた行動でジュネーブ条約違反の疑いをかけられるも、「助言しただけ」と弁明してお咎めなしに。ルクレール将軍に面会し、リッツホテルのバーを確保するため偵察戦車とジープ、部下を要求して「道化師」と罵られた逸話も残る。8月25日のパリ解放に立ち会い、シルヴィア・ビーチ主催の集いでスタインと和解。ヒュルゲン森林の戦い、アルデンヌの戦い(バルジの戦い)取材中に肺炎で入院し、主だった戦闘を逃す。
文学的栄誉と晩年
1952年『老人と海』発表、翌1953年ピューリッツァー賞受賞。同年アフリカ旅行中に飛行機事故で重傷を負い、以降慢性的な痛みと健康不安に苛まれる。1954年10月28日、ノーベル文学賞受賞。「現代小説の技法を革新し、『老人と海』においてその力量を証明した」との授賞理由。ストックホルムでの授賞式スピーチは史上最短記録。
最期と遺された謎
1960年9月、キューバとスペイン旅行から帰国後、心身ともに衰弱。糖尿病による視力低下、インポテンツ、生涯抱えていた双極性障害(当時は「狂気」と呼ばれた)が悪化。12月、ミネソタ州メイヨー・クリニックで電気ショック療法と鎮静剤治療を受け、1961年1月に退院。3か月後、再入院(サンバレー病院→メイヨー・クリニックで再び電気ショック療法)。6月30日退院、2日後の7月2日、アイダホ州ケッチャムの自宅で散弾銃で自ら命を絶った。かつて父の自殺を「臆病な行為」と罵していたが、同じ道を辿ることになる。
1991年公開の医療記録から、ヘモクロマトーシス(鉄過剰症、1961年診断)という遺伝性疾患が判明。重篤な身体・精神障害を引き起こすこの病気が、父、弟、妹、孫娘マーゴー・ヘミングウェイら一族の相次ぐ自殺の背景にあった可能性が指摘されている。
4度の結婚
- ハドリー・リチャードソン(1921年9月3日 - 1927年1月) 長男ジャックをもうける。女優マリエル・ヘミングウェイとマーゴー・ヘミングウェイは孫にあたる。
- ポーリン・ファイファー(1927年5月10日 - 1940年11月4日) 2人の息子をもうける。
- マーサ・ゲルホーン(1940年11月 - 1945年) 離婚から3週間で再婚。
- メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ(1946年3月 - ヘミングウェイ死去まで)
フランスの俳優クロード・ブラッスールの名付け親でもある。
主な作品
- 『武器よさらば』 A Farewell to Arms (1929年)
- 『キリマンジャロの雪』 The Snows of Kilimanjaro (1936年)
- 『誰がために鐘は鳴る』 For Whom the Bell Tolls (1940年)
- 『老人と海』 The Old Man and the Sea (1952年)