
ロシア帝国末期、一人の正教会司祭が歴史の表舞台に立ちました。その名はゲオルギー・ガポン。労働者の味方として深い信頼を集めた彼は、帝政ロシアを揺るがす大事件の中心人物となります。本記事では、ガポンの生涯と「血の日曜日」と呼ばれる悲劇、そして革命における教会の運命をたどります。
血の日曜日――請願行進の悲劇
1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)、サンクトペテルブルク。ガポンに率いられた労働者たちは、皇帝ニコライ2世に請願書を直接手渡すため、冬宮へ向かって行進しました。
請願書はガポン自身の手によって起草され、多数の市民の署名が集められました。そこには、皇帝によるより公正な統治と保護への期待とともに、適切な賃金の保障、教会と国家の分離、労働組合結成の自由といった、民衆の生活向上を求める具体的な要求が盛り込まれていました。
注目すべきは、ガポンには帝政転覆の意図がなかったという点です。ボリシェヴィキとは異なり、彼は当時の大多数の農民と同じく、「皇帝なしではロシアは成り立たない」と考えていました。だからこそ、ガポンはデモ参加者に対し武器の携帯を固く禁じました。
しかし悲劇は避けられませんでした。ペテルブルク守備隊は行進が無武装であることに気づかず、群衆に向けて発砲。ガポンの護衛たちは命を落としましたが、指導者である本人だけは奇跡的に生き延びました。この事件は「血の日曜日」として知られ、1905年革命の発端となったのです。
革命における教会の運命
カール・マルクスはかつてこう語りました。「宗教は人民の阿片である」。マルクスによれば、人々は宗教に心の拠り所を求め、宗教が定める行動規範に従属して生きることになります。それは人間を教会に従属させるだけでなく、国家への従属をも意味しました。当時のロシアでは、教会と国家が一体だったからです。
こうした思想を背景に、革命勢力は正教会から権力を奪っていきます。教会堂は破壊され、司祭たちはその職を追われました。しかし、ガポンはその光景を目にすることはありませんでした。彼は1906年3月28日にこの世を去ったからです。
謎に包まれた最期
血の日曜日事件後、ガポンは国外へ脱出し、スイスに亡命。亡命先でメンシェヴィキと接触した後、1905年秋にサンクトペテルブルクへ帰還しました。ところが翌年、彼はフィンランド近郊の田舎で絞首された状態で発見されます。犯人は革命的な社会主義者たちではないかとされていますが、真相は今なお謎に包まれたままです。
労働者の希望の象徴でありながら、革命の激流に呑まれて非業の死を遂げたガポン。その生涯は、信仰と革命が交錯する激動のロシア近代史を象徴する物語といえるでしょう。