古代の歴史

フランシス・ガブレスキ――第8航空軍No.1エースの生涯と戦績

フランシス・ガブレスキとは

フランシス・S・ガブレスキ(Francis S. Gabreski、1919年6月28日生まれ)は、第二次世界大戦と朝鮮戦争の二つの戦争で活躍したアメリカ空軍の伝説的エースパイロットです。仲間からは「ギャビー(Gabby)」の愛称で親しまれました。ヨーロッパ戦線では第8航空軍全体で撃墜数第1位の座に立ち、両戦争を通じて合計37機という戦果を挙げています。

主な戦績

ガブレスキの確認撃墜記録は次の通りです。

  • Fw190:10機
  • Bf109:11機
  • Bf110:7機
  • Me210:2機
  • MiG-15:6.5機

合計37機。ただし資料によっては34.5機とされることもあり、総撃墜数には諸説あります。

生い立ちとパイロットへの道

フランシス・ガブレスキ――第8航空軍No.1エースの生涯と戦績
1919年6月28日、ペンシルベニア州オイルシティにポーランド移民の息子として生まれました。ノートルダム大学に進学しますが、学業を早々に切り上げ、1940年7月に航空兵への道を選びます。翌1941年3月には操縦士資格を取得しました。

フランシス・ガブレスキ――第8航空軍No.1エースの生涯と戦績
そして1941年12月7日、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃したその時、彼は真珠湾近郊のウィーラー基地に勤務しており、開戦の瞬間に立ち会うことになったのです。

ヨーロッパ戦線での活躍

フランシス・ガブレスキ――第8航空軍No.1エースの生涯と戦績
1942年10月にアメリカ本土へ一時帰還した後、イングランドへ派遣され、ポーランド人部隊である第315飛行隊に配属されました。

フランシス・ガブレスキ――第8航空軍No.1エースの生涯と戦績
1943年2月、ホーシャム・セント・フェイスに駐屯する第56戦闘航空群――のちに第8航空軍の中核となる部隊――へ転属します。第61飛行隊の指揮官として着実に戦果を積み重ね、確認撃墜28機を記録し、第8航空軍全体でナンバーワンのエースとなりました。

不時着と捕虜生活

フランシス・ガブレスキ――第8航空軍No.1エースの生涯と戦績
1944年7月20日、編隊の先頭に立ってドイツ軍の飛行場を機銃掃射していた際、高度を下げすぎたためプロペラが土盛りに接触して不時着してしまいます。敵の巡回兵が到着する前に脱出には成功したものの、食料も水も持たず遠くへ逃れることはできませんでした。5日後、ドイツ人の農民たちに発見され、地元当局へ引き渡されます。

ルフトバッフェ(ドイツ空軍)の将校による最初の尋問の場で、その将校はこう彼を迎えたといいます。
「やあ、ギャビー! 君を長いこと待っていたよ!」

戦後と朝鮮戦争

終戦後はオハイオ州ライト・パターソン基地でテストパイロットを務め、大佐に昇進しました。1946年9月に一度は予備役となって民間人に戻りますが、わずか7か月後には空軍へ復帰し、第55戦闘飛行隊の指揮官に就任しています。

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、ガブレスキは同年11月、第4戦闘迎撃航空団とともに戦地へ赴きました。1951年7月8日に初戦果を挙げると、同年11月30日にはF-86Eセイバーを装備する第51戦闘迎撃航空団の司令官に任命されます。そして1952年4月、MiG-15を撃墜し、朝鮮戦争におけるアメリカ側8番目のジェットエースとなったのです。

その評価

フランシス・S・ガブレスキの総撃墜数については、37.5機とする資料と34.5機とする資料があり、今なお議論が分かれています。それでも彼は、存命するアメリカ人エースとしては最高の記録保持者と称えられてきました。2002年1月に82歳でこの世を去りましたが、「ギャビー」の名は、アメリカ空軍史において永く語り継がれることでしょう。