ロシア革命:帝政ロシアを倒した三つの転換点
20世紀初頭のロシアは、絶対君主制のもとで深刻な貧困と社会不安に苦しんでいました。1905年の「血の日曜日事件」を発端とする一連の動乱は、やがて1917年の二月革命・十月革命へとつながり、約300年続いたロマノフ王朝を滅ぼすことになります。本記事では、ロシア革命の流れを三つの重要な局面に分けて解説します。
血の日曜日事件(1905年1月22日)
ロシア革命の口火を切ったのは、1905年1月22日に首都ペテルブルク(現サンクトペテルブルク)で起きた「血の日曜日事件」です。正教司祭ゲオルギー・ガポンに率いられた約10万人の労働者たちが、皇帝ニコライ2世の肖像画や聖像を掲げ、冬宮殿へ向かって行進しました。
彼らの目的は皇帝打倒ではなく、あくまで自らの窮状を「小さき父」と慕う皇帝に直接訴えることでした。ガポンが労働者たちの署名を集めて作成した請願書には、正当な賃金の支払い、労働組合結成の権利、政教分離など、当時の体制では一切認められていない要求が盛り込まれていました。デモ隊は武器を一切持たず、賛美歌「主よ、ツァーリを守りたまえ」を歌いながら静かに進んだといわれています。
しかし、冬宮殿付近に配備されていた政府軍は群衆に向けて発砲し、多数の死者・負傷者を出しました。この無防備な民衆への虐殺は国内外に大きな衝撃を与え、皇帝への敬愛は一変して怒りへと変わりました。以降、ゼネストや農民反乱が帝国全土に波及する「1905年革命」が始まり、ニコライ2世は同年10月に立法議会ドゥーマの設置などを約束する十月詔書の発布を余儀なくされます。
二月革命(1917年)
1917年2月、第一次世界大戦の戦費と膨大な犠牲がロシア社会を疲弊させていた中、首都ペトログラードで新たな動乱が起こりました。発端となったのは、大規模な兵器工場における数千人規模の解雇と、市民生活を直撃する物資不足・パン不足への不満でした。
2月下旬には左派議員らが呼びかけた大規模なパン要求デモが発生し、翌日以降もストライキとデモが拡大。デモ隊のスローガンは次第に「パンを」から「ツァーリを倒せ」「専制を倒せ」という政治要求へとエスカレートしていきました。参加者たちは戦争継続にも体制にも強い不信を示し、声を上げ続けました。
ニコライ2世は秩序回復のため警備隊に出動と発砲を命じましたが、決定的だったのは兵士たちの離反です。市内の守備部隊が夜のうちに民衆側へ寝返り、翌朝には労働者と兵士が和解・連帯しました。両者はただちに冬宮殿を占拠し、指導層は政府の憲法化を約束させられます。皇帝は民主的な譲歩を迫られ、専制は崩壊へと向かいました。
こうして労働者・農民・兵士からなる「ソヴィエト」が創設され、臨時政府との間に「二重権力」の状態が成立します。事態を収拾できなかったニコライ2世は1917年3月に退位し、ロマノフ王朝は滅亡しました。幽閉されていた皇帝一家はその後、1918年7月17日にエカチェリンブルクで処刑されています。
十月革命(1917年)
臨時政府は戦争の継続を選択し、国民の疲弊をさらに深めました。そんな中、ボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンが帰国すると、彼はトロツキーらとともに闘い、即時講和と権力のソヴィエトへの移管を訴えて臨時政府を追い詰めていきます。
1917年9月には、トロツキーが議長を務めるペトログラード・ソヴィエトがレーニンの路線を支持。その最大の目標は、3年余り続く戦争を終わらせる即時平和の実現でした。1か月後の10月中旬、トロツキーは革命的軍事委員会を組織し、二月革命で民衆と連帯していたペトログラード守備隊の兵士たちを味方につけ、武装蜂起の準備を整えます。
そして1917年10月25日、革命的軍事委員会が権力を掌握し、ボリシェヴィキは冬宮殿を占拠して臨時政府を打倒しました。これが「十月革命」であり、血の日曜日以来、二月革命を経て到達した最も効果的かつ決定的な蜂起となりました。この革命は産業資本と旧支配層に抗する動きであり、君主制を打倒し、ロシア人民に「尊厳と居場所」を取り戻すことを目指すものでした。
権力を握ったボリシェヴィキがソヴィエトの権限を主張すると、穏健派のメンシェヴィキや社会革命党はソヴィエトから離脱し、以後、ロシアはボリシェヴィキによる統治へと向かっていきました。
ロシア革命の歴史的意義
画家サルバドール・ダリは「ロシア革命は、寒さのために遅れてやってきたフランス革命だ」と述べたことがあります。実際、ロシア革命はフランス革命と同じく絶対君主制を打倒し、民衆が政治の主役となる歴史的転換点となりました。政教分離により宗教が権力を濫用することはできなくなり、ロシア貴族たちは国外へ去らざるを得ませんでした。こうして空いた舞台に、レーニン主義に導かれた人民の時代が幕を開けたのです。