古代の歴史

ガダルカナル島の戦い:「血の尾根」攻防戦と第17軍の撤退

血の尾根への夜襲――1942年9月12日

9月12日の正午、ヴァンデグリフト海兵隊少将は自分の判断が正しかったことを確信した。日本軍爆撃機の狙いはヘンダーソン飛行場の滑走路ではなく、その南に連なる尾根(のちに「血の尾根」と呼ばれる)だったのだ。日没後まもなく、日本軍の巡洋艦1隻と駆逐艦3隻が尾根に向けて砲撃を開始し、砲撃が止むや否や川口支隊が突撃を仕掛けた。彼らは海兵隊の1個小隊を包囲することに成功したが、この小隊は激戦の末に味方の陣地まで突破して戻ることができた。

夜明け時点で米軍は、前夜の攻撃は自軍の配置を探る威力偵察だったと考えていた。もし川口少将がその晩こそ決戦を計画していたことを知っていれば、彼らの士気はもう少し低かったかもしれない。川口の構想は、3個大隊で尾根を攻撃し、残りの部隊は防衛線の西側と東側の側面を固めるというものだった。しかしジャングルの中の長く過酷な行軍が兵士たちを疲弊させ、通信網にも支障をきたしており、作戦統制は妨げられていた。それでも彼の攻撃は一木支隊のときと同じく狂気じみたものであった。2個大隊(約2,000名)が斜面を駆け下り、海兵隊の迫撃砲は正確に照準を合わせ、砲身が白熱するほどの速さで装填できるかぎり、突撃の波に砲弾の雨を浴びせ続けた。

徹夜の攻防

コマンド部隊の後方に陣取る海兵隊る海兵隊砲兵は斉射を重ねた。一方、日本軍側では7隻の駆逐艦がヘンダーソン飛行場を砲撃し、照明弾で絶えず照らし出し続けた。尾根では海兵隊は押されながらも退かず、日本軍はついに後退した。まもなく彼らは同じ激しさでもう一度突撃を再開した。防御線は削られながらも崩れず、日本軍は再び撤退を余儀なくされた。

2時間後、迫撃砲の一斉射撃が海兵隊とヴァンデグリフト本隊および砲兵支援との連絡線を断つと、日本軍はヘンダーソン飛行場まで約900メートル(1,000ヤード)の地点まで前進することができた。しかし、ガダルカナル戦史上有数の凄惨な白兵戦の末に彼らは撃退された。夜明け前にはさらに2回の突撃を仕掛けたが、勢いは以前より鈍っていた。そしてヘンダーソン飛行場の戦闘機が尾根の下のジャングルの縁への砲撃を始めると、川口は撤退を決意した。彼の損害は戦死・負傷・行方不明合わせて1,200名を超えた。飢えと病気に苛まれた第35旅団の残存兵力は、ライフル以外の武装もないまま、8日間にわたる命懸けのジャングル行軍を経て、ヘンダーソン飛行場西方のポイント・クルーズへたどり着いた。

コマンド部隊と空挺部隊もまた大きな犠牲を出していた。8月7日に上陸した約750名のコマンド部隊のうち234名を失い、377名の空挺部隊員のうち212名が死傷した。とはいえ、この時点で海兵隊がガダルカナルを守り抜けることは確実となった。

東京の大本営、増強を決める

だが東京の大本営はこの見方を共有しなかった。香港、ジャワ、スマトラで実戦を積んだ第38師団が、第17軍を指揮する百武晴吉中将のもと南太平洋へ進出するよう命じられた。同時に、すでに現地にあった丸山政男中将の第2師団もガダルカナルへ移送されることになった。ポートモレスビーに対するすべての作戦は中止され、ガダルカナル奪回に全戦力を集中させることになったのである。百武中将は司令部を同島に移し、重砲1個連隊と3個砲兵中隊、迫撃砲大隊、戦車中隊を含む約20,000名の兵力を手に入れた。

その後6週間、田中頼三少将率いる駆逐艦部隊による「ネズミ輸送」――米軍から「東京急行」と呼ばれた――が活発化し、海兵隊は毎晩のように爆撃を受けた。

幸いヴァンデグリフトにも増援が届いた。第7海兵連隊、砲兵大隊、自動車化輸送中隊、通信要員、そして後に6,000名を超える第164歩兵連隊が到着し、総兵力は23,000名を超えた。同様に重要なのは、ヘンダーソン飛行場の強化も大幅に進んだことであった。

帳簿上は精強、実際は疲弊

書類の上ではヴァンデグリフトの戦力は堂々たるものだったが、現実にはかなり消耗していた。損害は1,000名を超えていなかったものの、海兵隊員の多くは栄養失調、赤痢、悪性の感染症に苦しみ、快適さも休息も完全に欠いていた。実際のところ、他のどの戦域であれば、部隊の3分の1以上が戦闘不適格と認定されていたであろう状態だった。

10月の総攻撃――丸山師団の挑戦

10月23日、日本軍第2師団(約8個大隊、5,600名)は戦車の支援を受けて防衛線の東側から攻撃を開始した。しかし高度に集中した砲兵火力がその前進を阻止した。24時間後、丸山中将は主力7,000名をもって南方から攻撃した。2日間にわたり日本軍はヘンダーソン飛行場南の斜面に殺到した。一時は防衛線内に橋頭堡を築くことさえあったが、やがて川口旅団と同じように、3,500名の損害を出して打ちひしがれ、疲弊しきった状態でジャングルへ退却していった。

通信不全が招いた敗北

敗因は今回も日本軍内部の連絡の途絶にあった。10月16日に始まった丸山部隊のジャングル行軍は予想よりはるかに遅く困難を極め、砲兵と迫撃砲は放棄せざるを得ず、攻撃開始は2度延期された。ところが2度目の延期命令がマタニカウ地区の日本軍指揮官には伝わらなかった。その結果、同時に実施されるはずだった2つの攻撃は24時間ずれて行われることになり、ヴァンデグリフトはこれを各個に撃退することができたのである。問題はその後、彼にとっても敵にとっても「次に何をすべきか」であった。

米軍、反攻へ

米軍にとって、ヴァンデグリフトと、ゴームレー提督の後任として南太平洋方面司令官に就任したばかりのハルゼー提督にとって、答えは明らかだった。攻勢に転じ、日本軍第17軍の残存兵力を海へ叩き落とす時だというのである。同時に、現在の状態にある第1海兵師団が、長く厳しく血なまぐさい攻勢に適した戦力ではなくなっていることも明白だった。新鮮で多数の兵力が必要だった。11月をかけて陣地を拡張し、最も脅威となる日本軍の前哨を排除して将来の攻勢に備えた後、12月初めにヴァンデグリフトと第1海兵師団は、パッチ中将指揮下の第14軍団――第25歩兵師団、第2海兵師団、「アメリカカル」師団からなる――と交代した。

日本軍の執念と輸送船団の壊滅

日本軍にとっての問題は、ヘンダーソン飛行場を米軍から奪還しようとする努力を続けるかどうかの決断だった。大本営は敗北を認めることを拒み、帝国各地から新しい部隊が抽出されて第17軍に配属された。佐野忠義中将の第38師団はガダルカナルへ移動し、1943年1月中旬の第4次総攻撃に備えることになった。しかし11月15日前後、米海軍航空隊の1個飛行隊が甚大な損失を払いながらも、ヘンダーソン飛行場を爆撃して地上の航空機を破壊しようとする日本軍編隊の接近を阻止することに成功した。この英雄的な抵抗が飛行場を守り切り、佐野師団を乗せてガダルカナルへ向かう11隻の輸送船団に対して猛烈な攻撃を加えることができたのである。輸送船6隻が沈み、1隻が航行不能となり、4隻が海岸に座礁した。この師団の人員でガダルカナルにたどり着けたのは、重装備を持たないわずか2,000名だけであった。

撤退決定と「ケ号作戦」

人員と物資のこのような出血はもはや持続不可能であり、大本営もついにそれを認めた。8月7日以来の損害は、軍艦65隻、航空機800機超に達していた。1942年12月31日、昭和天皇は第17軍をガダルカナルから撤収させる裁可を与えた。

百武中将はこの命令をなかなか受け入れられなかった。しかし東方への撤退は、飢えと装備不足にあえぎながらもいかに勇敢に戦う日本兵であるかを、第14軍団に知らしめる機会ともなった。1月から2月初めにかけて、米軍は一度として綿密に計算された撤収のテンポを乱すことに成功しなかった。2月1日から9日までの間に、「東京急行」の駆逐艦群は夜ごとに第17軍の生存者11,000名を収容した。米軍を海へ追い払うために送り込まれた兵力のごく一部ではあったが、なお恐るべき戦力であり、再び戦いに戻っていく部隊であった。