1945年3月14日、アメリカ軍は組織的な抵抗はすでに終わったと判断し、硫黄島を正式に攻略したと宣言しました。しかし実際には、地下壕やトンネルの中に潜み、数百人の日本兵がなお抵抗を続けていました。
栗林忠道中将の最後の訓示
3月17日、総司令官の栗林忠道中将は、生き残った将兵に向けて次のような訓示を送りました。
「戦闘もいよいよ終末に近づきつつある。生存せる将兵は、出撃して敵を攻撃せよ。これは私の命令である。諸君は既にその身を天皇に捧げたのだから、自らを顧みることはない。私は必ず先頭に立つ」

残存兵力の一掃と最後の突撃
散在する抵抗拠点の掃討作戦は、火炎放射器で武装した戦車および爆破部隊に任され、3月26日まで続きました。その26日、日本軍は最後の攻撃を敢行します。約350名の攻撃部隊が、アメリカ陸軍航空隊と海軍の工兵キャンプを夜襲したのです。この攻撃を鎮圧するには、丸一日におよぶ激しい白兵戦と、海兵隊1個大隊の応援が必要でした。
そして戦闘の最末期、栗林中将は硫黄島北端において自ら命を絶ちました。組織的な指揮系統はここに完全に失われたのです。
両軍の甚大な損害
3月26日の時点で、降伏した日本兵はわずか216名にとどまり、戦死者は約20,000名に達しました。さらにその後2か月間で、残存拠点の一掃過程において1,600名が死亡し、370名が捕虜となっています。
一方、制空権・制海権を完全に掌握し、圧倒的な火力優勢のもとで戦ったアメリカ軍の損害もまた、驚くほど大きなものでした。海兵隊は将校275名・兵卒5,610名が戦死し、将校826名・兵卒16,446名が負傷。硫黄島の戦いは、上陸部隊全体の30%という損耗率を意味しました。特に第4・第5海兵師団の歩兵連隊では、戦力の約75%を失うという悲惨な数字が残されています。
硫黄島が証明した戦略的価値
こうした多大な犠牲にもかかわらず、硫黄島は、統合参謀本部、とりわけ陸軍航空隊が同島確保に託した戦略的価値を、まもなく実証することになります。
終戦までに、2万人を超える航空乗員が島の飛行場を利用しました。そして4月7日以降は、工兵部隊の懸命な整備作業により、P-51マスタング戦闘機がB-29スーパーフォートレスによる東京をはじめとする日本本土各都市への昼間爆撃を、全程護衛できるようになったのです。