古代の歴史

大西洋の戦い:背景と初期の展開――Uボートの脅威と連合国の対抗手段

大西洋の戦い:背景と初期の展開――Uボートの脅威と連合国の対抗手段

ドイツUボート戦力の拡大と作戦海域の拡張

1939年9月の開戦時、ドイツ海軍(クリークスマリーネ)が実戦投入できたUボートは30隻足らずだった。しかし、わずか2年後の1941年には、ドニッツ提督のもとで激しい建造計画が進められた結果、少なくとも250隻のUボートを作戦に投入可能となり、うち約100隻が常時作戦海域に展開できるまでになっていた。

主な攻撃海域は、イギリス諸島とアイスランド周辺の北大西洋、西アフリカ沿岸、そして時には南大西洋に及んだ。しかし、1941年12月7日の真珠湾攻撃と、続く12月11日の枢軸国による対米宣戦布告により、ドイツ潜水艦の行動範囲は北米沿岸とアンティル諸島海域へと拡大した。ここではベネズエラとメキシコ湾からの油槽船が主に航行しており、これらが単独航行していたため、撃沈数は桁違いに増大した。

チャーチルの回顧録によれば、1942年10月には月間撃沈数が戦争全期を通じて最高の117隻、70万トン超に達した。しかし、同月には枢軸国潜水艦16隻が撃沈されるという、こちらも過去最高の損害記録が生まれている。護衛空母からの哨戒機支援、探知手段と護衛艦武装の改良、そして何より護送船団制度の徹底により、連合国はついに水中の脅威を封じ込めることに成功する。

イギリス海軍の再軍備と防衛戦略

1936年から始まった艦隊整備計画

イギリス海軍の建艦計画は、ヒトラーがラインラントに進駐した1936年、将来の侵攻意図が明確になった時点で具体化していた。参謀本部はすでに戦争不可避と判断し、1939年後半の開戦を予測していた。ラインラント進駐を受け、議会に補正予算が提出され、戦艦2隻、空母1隻、巡洋艦5隻などの建造が決まり、1937年にはさらに戦艦3隻、空母2隻、巡洋艦7隻が追加された。1939年の参戦時には、これら新造艦の第一陣がちょうど艦隊に編入されたところだった。

防衛戦略の採用とその理由

1939年1月30日に公表された海軍作戦計画は、「防衛戦略」の原則を採っていた。海戦の初期段階では、主導権を握り続けることに勝る策はない。闇雲に攻撃に転じることは幾度も災いの前兆となってきたため、十分かつ練度の高い戦力が整うまで組織を固め、時を待つのが賢明とされた。攻勢戦略が実を結ぶのは、その段階に達してからである。

皇家海軍の三大任務と艦隊配備

通商保護と封鎖の三本柱

イギリス海軍の計画は、ドイツとイタリアの二正面作戦を前提とし、三つの主要部分で構成されていた。

  1. 本国周辺海域と大西洋の通商保護:補給は戦争の神経であり、最優先事項。
  2. 地中海とインド洋の通商保護:イタリアが交戦国となれば、地中海での地理的優位により全船舶が喜望峰経由の遠回りを強いられる。これを防ぐため、地中海に強力な艦隊を配備し、イタリア海軍を無力化する。
  3. 両敵国への海上封鎖:開戦とともに違禁品目リストを公表し、中立国船籍であっても拿捕対象とした。

ホームフリートと地中海の布陣

本国艦隊(ホームフリート)の主力は、オークニー諸島のスカパ・フロー湾に集結し、ドイツ海域への出撃に備えた。北方では北方哨戒部隊の巡洋艦がシェトランド諸島からノルウェー沿岸にかけ、航空機と潜水艦で監視線を張った。ハンバー河口には巡洋艦隊と駆逐艦隊、南方のポートランドには戦艦・空母・巡洋艦・駆逐艦からなる艦隊が配備され、大西洋への出口を監視した。

四大軍港(プリマス、ポーツマス、ザ・ノア、ロサイス)にはそれぞれ駆逐艦、対潜艦、掃海艇が置かれ、局地防衛と船団護衛を担った。地中海では西部をフランス海軍に任せ、イギリス艦隊はアレキサンドリアを拠点に東部を担当。ジブラルタル海峡と紅海に強力部隊を配置し、地中海に入る商船を検査する体制を整えた。

ドイツ海軍の未完成な戦力と作戦指令

「Z計画」の遅れと実戦投入された艦艇

ドイツ側の計画は、そもそも1944年まで一般戦争を望まないヒトラーの意向に基づき、レーダー提督が立案した「Z計画」に沿ったものだった。開戦時には、望んだ主力艦の多くがまだ建造中、あるいは計画段階にあった。それでも実戦可能な戦力として、条約上1万トン(実質1.3万トン)の「ポケット戦艦」3隻、シュラントホルストとグナイゼナウの巡洋戦艦(条約超過6000トン)、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦(同4000トン超過)がほぼ完成していた。Uボートは56隻保有し、うち10隻を除き作戦可能。乗組員は潜水艦禁止時代に「対潜訓練の妨げになる」という建前で密かに訓練され、高い練度を誇った。

通商破壊と無制限潜水艦戦の萌芽

1939年5月公布の戦闘指令は、北海での相次ぐ機動でイギリス軍を牽制し、大型艦を大洋に展開して通商破壊を行い、Uボートを大西洋と主要港湾周辺の通商破壊に従事させるものだった。新型大型艦の遅れを補うため、商船を武装改装して補助巡洋艦とする方針も示された。指令には不穏な一文が紛れ込んでいた。「国際法規に反する場合でも、あらゆる戦闘手段を躊躇なく用いよ」――これは、イギリスが海上では永遠に禁じられると願っていた「無制限潜水艦戦」の予兆だった。

大西洋の戦い:背景と初期の展開――Uボートの脅威と連合国の対抗手段

開戦直前の先制展開

ドイツ海軍は開戦に先立ち着々と配備を進めた。8月21日夜、ポケット戦艦「グラーフ・シュペー」が北海を抜け大西洋へ潜入。3日後、「ドイッチュラント」が続き、給油艦「アルトマルク」と「ヴェスターヴァルト」も同行した。8月19〜29日には、洋上型Uボート17隻が大西洋の哨戒海域へ、沿岸型7隻が英仏海峡の機雷敷設へ、さらに6隻が北海中央へ配備された。

連合国の封鎖網と最初の犠牲

イギリス海軍の第一義務は、敵を海上から封じ込め、海路からの補給を絶つ「包囲環」を築くことだった。北海から地中海全長にわたり連合国海軍がこの環を維持し、大陸側では地上・空中戦力が連携した。ドイツの補給路は、独ソ不可侵条約により自由地帯となっていた東方(ソ連)のみに限られた。この包囲は効果を発揮し、開戦から1939年末までに連合国はドイツ向け物資53万トンを拿捕している。

しかし、包囲環の外では早々に問題が噴出した。開戦直後の9月3日、ドナルドソンラインの客船「アテニア」がヘブリディーズ諸島西方200マイルでU-30の雷撃を受け、乗客112名が犠牲となった。U-30艦長は命令を逸脱していたが、この事件はイギリス海軍本部に「容赦なき潜水艦戦が始まった」ことを突きつけた。それまでの戦略的海域での護衛哨戒と分散航路という暫定案は放棄され、早急に護送船団制度への移行が決断された。

護送船団制度の導入と「護衛限界線」の苦闘

ここでイギリス海軍は、戦前の艦隊整備遅延のツケを払わされることになる。当時利用可能な駆逐艦等では、大西洋深くまで船団を護衛する戦力が足りなかった。新造艦が揃うまでの間、「護衛限界線」がイギリス西岸から約300マイル(約550km)の地点に設定された。この線以西では船団は解散し、単独航行を余儀なくされた。東行船団は武装商船などが洋上護衛し、限界線で正規の護衛艦が引き継いで英国港へ導く。この限界線は新艦就役に伴い徐々に延ばされたが、大西洋全域を通じた実効的な対潜護衛が可能になったのは、1941年半ばを待たねばならなかった。

こうした制約下でも、1939年末までの損害は撃沈114隻・42万トンに対しUボート9隻撃沈と、護衛戦力の脆弱さを考えれば「まずまず」の数字だった。しかし海軍本部は、ドイツが1941年までにUボートを倍増・3倍増させる大規模建造計画を進めていることを把握しており、この成果が束の間のものであることを肝に銘じていた。Uボート戦力がピークに達すれば、商船損害は跳ね上がると予見されていたのだ。

対潜掃討部隊の失敗と情報戦への転換

空母を用いた「狩り」の挫折

イギリスは早期にUボート狩りを試みた。空母1隻と駆逐艦4隻からなる二つの対潜掃討群を編成し、イギリス沿岸沖で作戦を展開した。9月14日、「アーク・ロイヤル」がU-39の雷撃を辛くも回避、随伴駆逐艦が反撃しU-39を撃沈・拿捕した。しかし3日後、空母「カレイジャス」がU-29に発見され、雷撃で撃沈。乗員519名が犠牲となった。1936・37年計画の空母が1941年前には就役しない状況で、貴重な空母をこの任務に使うリスクは大きすぎると判断され、「アーク・ロイヤル」は本国艦隊に呼び戻された。

情報センターと「追跡室」の創設

この失敗を機に、海軍本部内で対潜戦を統括する組織が整備された。戦前から運用されていた情報センターに加え、Uボート専門の「追跡室」が設けられた。ここに集約されたのは、敵国内のエージェント報告、航空機・艦船による目撃情報、Uボートの攻撃報告、そして何より最大の情報源である「Uボートが発信した無線の方位測定」だ。全無線受信局とテレプリンターで直結され、Uボートが通信するたびに方位が即座に記録され、地図上で交差測位によって正確な位置が特定された。

これに「航跡図(トラフィック・プロット)」を併用し、全船団と単独船の位置・針路・速力をプロット。Uボート位置と照合することで危険海域を船団に警告し、針路変更を可能にした。追跡室は昼夜兼行で稼働し、次第にUボートの動きを予測できるようになった。その精度は向上し、1943年頃には「Uボートがイギリス船を撃沈する数より、撃沈されるUボートの数が上回る」段階にまで達するのである。

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